富美子さんの「おふくろの味」とは

のれんの「おふくろの味」の文字が嬉しい
のれんの「おふくろの味」の文字が嬉しい
木製の扉をからりと開けると、この雰囲気!
木製の扉をからりと開けると、この雰囲気!

右側、カウンターの外にいるのが女将の富美子さん。厨房にいるのが息子の行雄さん。約10席の小さな店を、親子ふたりで切り盛りしている。

木曽路の創業は今から約50年前で、富美子さんが38歳の時。それ以前も幡ヶ谷で10年ほど、もう少し大きな飲食店を経営していたそうだが、「そろそろひとりで手の届く範囲のお店をやりたい」と店舗を探していたところ、お友達が偶然この場所を紹介してくれたそうだ。

何はともあれ、生ビール 600円で喉を潤おそう
何はともあれ、生ビール 600円で喉を潤おそう
無料のお通し
無料のお通し

豆腐の上にかかっているのは、ネギとショウガがベースの、ピリッと濃厚なオリジナルのタレ。冷奴のタレひとつとっても、きっちりと手が込んでいる。

カウンター上には色とりどりの大皿料理がずらり。
カウンター上には色とりどりの大皿料理がずらり。

料理は皿を指差し「これください」と言えば出てくる。どれも魅力的な品々の中から、己の欲望に忠実に向きあい、まずはこのあたりの品々を選んでみた。

じゃこピーマン600円
じゃこピーマン600円

穏やかで優しく、究極に心身が癒される味わい。年を重ねるごとに、こういうものこそが本当に美味しいと感じるようになる。

カスベの煮付け600円
カスベの煮付け600円

カスベとはエイのことで、特に北海道ではよく食べられる食材だそう。こっくりと甘辛く煮付けてあり、肉厚でふわりとした身から、コリコリとした食感が楽しいエイヒレ部分まで、一皿で幅広い味わい違いを楽しめるのも嬉しい。

木曽路を支える、富美子さんの「おふくろの味」はすべて、料理上手だった義理のお母様に教えてもらったものなのだとか。13歳のときに実のお母様を亡くされた富美子さん。昔の嫁姑の関係だから当然厳しくもあり、お姑さんが「黒」と言えば白いものも黒という時代だったそう。しかしそれが今、こうして富美子さんの生きる糧になっている。そのことをものすごく感謝していると話してくれた。

料理のほとんどが、富美子さんの手作りだ。
料理のほとんどが、富美子さんの手作りだ。

木曽路という店名に秘められた想い

ところでこの店を初めて訪れた夜、何気なく「木曽って長野県の地名でしたっけ? ご出身なんですか?」とお聞きしたところ、富美子さんが、『木曽路』という店名の由来を聞かせてくれた。それがなかなかに壮絶なエピソードだった。

富美子さんは福島県出身で、木曽とはなんのゆかりもない。太平洋戦争末期の1945年、富美子さんは郡山の女学校に通っていた。空襲が相次ぐ街で「勉強半分、挺身半分」と言われ、近くの軍需工場で手を油まみれにしながら飛行機部品を作らされる日々だった。
そんなある日、富美子さんとその同級生が、陸軍飛行場に集められた。理由は、特攻隊員として戦地に向かう青年たち12名の見送り。「戻っては来られないだろう」と思ってもそんなことは言えず、涙をポロポロと流しながら、ただ握手した青年の胸には“木曽”の文字があった。その記憶は富美子さんの中に強く残り続け、この店を開く際、「彼らの魂が少しでも安らかになれば」と、店名にしたのだという。

あまりにも悲しくて切ない話だが、富美子さんはあっけらかんと話してくれた。だからこそ、その強さに感動するし、勇気ももらえる。こんなにも貴重な話を飲みながら聞かせてもらえる木曽路、本当にすごい酒場だなぁと思う。

息子さんの協力により、さらなる進化を遂げた店

息子の行雄さんは、かつてはこの店の隣で、洋酒やワインが中心の洋風創作料理屋を営んでいた。ところがあるとき、富美子さんが怪我をしてしまい、それをきっかけに店を閉めて『木曽路』を手伝うようになったのだとか。

現在は厨房をメインで切り盛りする
現在は厨房をメインで切り盛りする
ひじきオムレツ600円
ひじきオムレツ600円

こちらのオムレツは行雄さん作。これ、実は前日に残った富美子さん手作りのひじきの煮付けを行雄さんがアレンジしたもの。具にチーズなども加わっていて、どこかキッシュのようでもあり、不思議な美味しさの親子コラボ料理だ。

ちょっと変わったメニューだらけでどれも気になる。壁にはイラストもずらり。
ちょっと変わったメニューだらけでどれも気になる。壁にはイラストもずらり。
芸術的な航空写真にも注目。
芸術的な航空写真にも注目。

写真やイラストは、どれも行雄さんの作品。博識で会話の引き出しも多く、行雄さんとの会話を楽しみに来るお客さんも多いのだ。

よく見ると普通じゃないところも最高
よく見ると普通じゃないところも最高
焼酎水割り600円
焼酎水割り600円

サービス精神が旺盛すぎる行雄さん。芋焼酎の水割りを頼むと、でっかいグラスに、ロックくらいの濃さでやってきた。これは酔うな〜!

グラスワイン赤900円
グラスワイン赤900円
自家製パン600円
自家製パン600円

さらにすごいのがワインで、たぷたぷで受け取るのがやっと! そして「ワインに合うと思いますよ」とすすめてもらったのは、行雄さんが焼いた自家製のパン。香ばしいパンの風味とチーズの塩気、そこに合わせるのが、なんとバラのジャム! おふくろの味から先鋭的な創作料理まで、まるでジェットコースターのような楽しみ方もできるのが、『木曽路』の奥深さなのだ。

毎日通う常連さんが多いのも納得の、美味しさと居心地の良さ
毎日通う常連さんが多いのも納得の、美味しさと居心地の良さ

店主からのメッセージ

「うちは外から中が見えないから入りにくいでしょ? 最近来てくれるようになった若い女性のお客さんもね、『何度もお店の前を通って気になってたんだけど、今日やっと勇気を出して入ってみたんです』って言ってくれてね。私も『入ったからには逃がさないわよ』なんて(笑)。だけどそうやって一度入ってくださると、長く通ってくれるようになる方は多いですよ。私、お客さんとの関係って、ご縁だと思うの。ご縁があればお付き合いが始まるだけ。そんな感じでのんきにやらせてもらってますよ。本当はもっと宣伝したりしなきゃいけないんだろうけど(笑)。
若い方で、おじいちゃんおばあちゃんがいない人も多いじゃないですか。だから、私みたいな人に悩みなんかをいろいろ話すと、ほっとするみたいね。なかなか親兄弟にだって言えないこともあるじゃないですか。だから私、なんでもお話を聞いてあげるの。それに対して、私が経験したことからアドバイスができることがあれば言ってあげるしね」(富美子さん)

富美子さん、行雄さん、ごちそうさまでした!

『木曽路』店舗詳細

住所:東京都文京区根津2-27-9/営業時間:18:00~24:00/定休日:日・月

取材・文・撮影=パリッコ

北千住駅のある東京都足立区は、僕のような東京の西側出身者である酒飲みからすると、どうしても憧れを抱いてしまうエリアだ。煮込みの名店『大はし』があり、関西スタイルの串カツを東京にいち早く伝えた『天七』があり、クオリティの高い和食を立ち飲みで楽しめる“割烹くずし”の『徳多和良』があり、その他無数の名店と呼ばれる飲み屋がひしめく、いわば下町の聖地。中でも、西口駅前の飲み屋街にある『千住の永見』は、街を代表する名酒場といって間違いないだろう。
神田神保町といえば、古書の街。それから僕にとっては仕事相手である出版社が多数立ち並ぶ、文化的な街というイメージ。そんな神保町の路地にぽつんと、それでいて存在感抜群の提灯をともすのが『兵六』だ。創業昭和23年の老舗で、一見客がふらりと入るのは若干躊躇してしまう、貫禄ある佇まい。実際僕が何度か訪れたのも、知人編集者に連れられてだった。値段も雰囲気も間違いなく大衆酒場ではあるけれど、いつもよりちょっとだけ襟を正して飲む店。それが僕にとっての『兵六』だ。
この店を知るまで、僕はあまり渋谷が好きではなかった。飲める年齢になってからずーっと酒好きで、居心地のいい飲み屋がある街こそが自分の居場所のように感じていた。だから、常に若者文化の最先端であるような、そしてそれを求めてアッパーなティーンたちが集まってくるようなイメージの渋谷という街に、自分の居場所はないと思いこんでいた。