辻原 登 つじはら のぼる

作家。1945年、和歌山生まれ。1990年、『村の名前』で芥川賞。『枯れ葉の中の青い炎』で川端康成文学賞、『韃靼の馬』で司馬遼太郎賞。代表作に『ジャスミン』『闇の奥』『冬の旅』『東京大学で世界文学を学ぶ』ほか。

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座間谷戸山公園の”黒に近い緑”

武田 お久しぶりです。以前江の島でインタビュー(※1)させていただいたのは2015年ですからもう7年前になります。その後、時々雑誌を送らせていただいたりしました。が、驚いたのは、近作「月も隈なきは」(※2)と最新作『隠し女小春』(※3)に「散歩の達人」がちらっと登場するじゃありませんか! 読んでて椅子からずり落ちそうになりました。(笑)

辻原 「散歩の達人」はよく買ってますよ。いい雑誌だと思います。載ってるお店が庶民的というか、とってもいい店だけどあまり高くなくて気軽に行けるのがいいですね。それに街の歴史というか、その背景をちゃんと書いているのもいいですね。

武田 もしかして、うちの雑誌を見て行った店が本に出てくる……なんてことも?

辻原 もちろんたくさんありますよ。『隠し女小春』では、神保町の『エスパス ビブリオ』『カフェ・デ・プリマヴェーラ』『クラインブルー』(※4)、目黒の『コーヒーの店 ドゥー』なんかもそうですね。もっとありますよ、すぐには出てこないけれども。

武田 ありがとうございます。とってもうれしいです。
それにしてもここ、座間谷戸山公園(※5)はすごいですね。仕事がら東京近郊の公園は知ってるつもりでいましたが、とにかく緑が深い。緑は緑でも、黒に近い緑です。

辻原 いいでしょう? 友人の編集者に教えてもらったんだけど、これはなかなかないですよね。

※1 「散歩の達人」2015年6月号、特集は「鎌倉・江ノ電」。短編「片瀬江ノ島」(『マノンの肉体』収録)をきっかけに江の島を歩きつつインタビュー。

※2 『不意撃ち』(2018年刊)収録の60ページほどの短編。タイトルは1985年に起きた無理心中事件の遺書「月も隈なきはいやにてそうろう」から。河出書房新社/1760円

※3 神保町のマンションの一室でラブドール・小春と暮らす男。そのマンションの向かいにある女が部屋を借り……。2022年/文藝春秋/1760円

※4 いずれも神保町のカフェ。今回は座間から移動後、ブックカフェ『エスパス・ビブリオ』にてインタビューしました。

※5 1993年に開園した巨大な風致公園。30.6haは東京ドーム6個以上。高低差のある谷戸にサンクチュアリ、池、湿性生態園、シラカシ林が。

鬱蒼(うっそう)とした座間谷戸山公園の核心部。ジャングルのよう。
鬱蒼(うっそう)とした座間谷戸山公園の核心部。ジャングルのよう。

武田 「月も隈なきは」の主人公・奥本さんの散歩コースになっているのも、わかる気がします。ずっと危険を避けて生きてきた、ある種、事なかれ主義の出版社社員が、定年後突然家族に内緒で家出する。心のどこかに闇というほどではないけど、暗くて見えないものを隠し持っているんですね、この公園のように。

辻原 あの小説は、この公園を散歩するところから始まりますが、出だしの「奥本さんがいる。」という一行はここを歩いているときに思いついたんです。

武田 あの出だしの一行、いいですね。引き込まれます。

辻原 そしてこの公園で、奥本さんはログハウスの横のカントリーヘッジに共鳴し、ヒノキの巨木に「あなたのお年は?」と問いかけてみたくなる……。

武田 そういうのは本当に一定程度年を重ねた人にしかわからない感覚だと思います。だから私は奥本さんのファンなんです。

どこまでが真実で、どこから虚構なのか?

武田 ところで辻原さんは神奈川近代文学館(※6)の館長を長く務めていらっしゃいますね。ポール・クローデルや大佛次郎(おさらぎじろう)についての講演も聞かせていただきました。

辻原 それはありがとうございます。あまり顔を出してないんですよ。仕事もしてない(笑)。

武田 そうでしたか。

辻原 でもいいんじゃないかな。館の人たちはみんな優秀ですから。長く続く秘訣(ひけつ)です。

武田 なるほど、大事なことですね。

辻原 それはともかく。あそこは資料保存のエキスパートで、僕の創作に関する資料を預かってもらっているんです。一作あたり大きな段ボール2箱ぐらいですけど。

武田 はい。

辻原 文学館の資料の整理・保存力は素晴らしい。僕の資料の中にすごいのがあるんですよ。例えば、「手紙セックス」とか……。

武田 はい?

辻原 とある好事家の知人から譲り受けた資料ですが、かつて手紙だけのセックスを推奨するカリスマ的人物がいて、その人のところに集まってきた手紙なんです。2、300通ある。しかも相手とは絶対会わないという。書いてある内容も情熱的で過激で、官能小説の書き方を学ぶには格好の教材(笑)。

武田 すさまじそうですね。

辻原 それが『籠の鸚鵡』(※7)の出だしになりました。

武田 ああそうでした。あれはちょっと怖いぐらいで。

辻原 そう、怖いもの見たさです。創作とは、変な世界そのものに入っていくのではなくて、俯瞰(ふかん)すること、垣根を超えるということです。

武田 『隠し女小春』も、なかなか不思議な設定です。神保町のマンションに一人暮らしする男が美しいラブドールと暮らしているわけですが、そのラブドールと出合う場所が……。

辻原 ギャラリー「人形(ひとがた)」。

武田 ギャラリーの立地が黄金町というのがリアルでした。

※6 港の見える丘公園にある文学専門のミュージアム。通称「かなぶん」。資料保存のエキスパートを擁することで有名。辻原さんは2012年から館長を務めている。

※7 暴力団の若頭、町役場の出納係、そして「バーグマン」の魅惑的なママ、3人を中心に展開するクライムノベル。舞台はバブル期と「山一抗争」。吉本隆明の詩が効果的に登場。2016年刊。

『隠し女小春』の矢野と恭子は西神田の公園を挟んだマンションに住んでいる設定。
『隠し女小春』の矢野と恭子は西神田の公園を挟んだマンションに住んでいる設定。

辻原 以前、遊郭があったところですからね。日本のラブドールは技術的に高いと言われてます。世界的に有名なメーカーもありますが、じつは無名の小さなところでつくっているのがいいんです。とってもセクシーですよ。

武田 でも「小春」は海外製ですね。ブダペストの職人が作ったと。

辻原 あれは全くの創作です。

武田 え? サンクトペテルブルクで品評会があるとかも?

辻原 そう。ハンガリーやチェコは人形劇の本場だし、東欧というのはミステリアスなムードを持ってますからね。

武田 てっきりあっちの方ににラブドール文化があるんだと思いました。どこまで本当かわからない辻原ワールド、健在ですね。

辻原さんもよく行く名画座『神保町シアター』。
辻原さんもよく行く名画座『神保町シアター』。

なぜ時間がかかるのか? ツジハラ的小説創作術

6000冊の蔵書読み放題のブックカフェ『エスパス・ビブリオ』にて。
6000冊の蔵書読み放題のブックカフェ『エスパス・ビブリオ』にて。

武田 創作の話が出たんで、一度お聞きしたいと思っていたことを聞きます。辻原さんは小説を書くときに付箋を多用すると聞いたことがありますが、具体的にはどうやるんでしょう。

辻原 そう……まず言っておきたいんですが、僕は、どちらかというと書くのが下手なんです。

武田 え⁉ そうなんですか?

辻原 ぎごちないというかね。だから考えを伝えるためにはちょっと手間がかかると思っています。
普通は、まずノートを作り、それから下書き、清書と進むと思いますが、僕はノートを作ったら、それを付箋に書き写す。赤・黄・緑・青4種類の付箋に4行ずつ書いていく。もう何百という数です。それをA3の紙に張り付け、いろいろ入れ替えて、コピーをとって持ち歩くんです。で、ああだこうだ考えて、持ち帰ってまた並び替えて、またコピーとって持ち歩く。それを繰り返したあと、やっと決定稿を作る。それもまだ付箋。そのあと清書という流れです。

武田 本当に気の遠くなるような作業ですね。

辻原 僕は小説は建築みたいなものだと考えていますが、付箋は窓とか床とか、構成要素です。原稿用紙や大きな紙が上物で、その中でいろいろ並べ替えて、図面を描くようにストーリーを作る。

武田 難しそうです。

辻原 また、小説というのは時間の建造物だともいえます。書くという行為も読むという行為も時間の中で行うものですが、その間に立ち現れる小説は建築的世界だと言えるんじゃないでしょうか。

武田 なるほど。そして辻原さんは手書き原稿なんですよね。

辻原 やっぱり手書きの方が、脳細胞をより多く働かせますよね。キーボートを打つのと、1マスずつ文字を書いて埋めるのとではシナプスの運動量も圧倒的に違うでしょう。また、描写ということを考えても手書きの方がアドバンテージがあると思います。「木の枝が風に揺れている」ということを書くとき、ペンで想像しながら書く方がキーボードを打つよりいいと思いませんか?……でもまあ今どきそんなこと言っても仕方ないんですけどね(笑)。確かにものすごく時間はかかります。

武田 やっぱり小説は時間の芸術ですね。昔、辻原さんは講演で「状況をきちんと書くのが純文学」とおっしゃっていました。実は私はこの言葉の意味が今一つわかっていませんでしたが、今の話を聞いて少しわかりました。

辻原 それは多分、ストーリーだけじゃないってことを言いたかったんだと思います。

武田 実は「散歩の達人」も作るのに時間がかかる雑誌なんです。全部ロケハンして、ミーティングして、やっと取材ですから。だから、辻原さんに褒めていただけたのはうれしいです。

不思議な街・湯島

一見、特に特徴のない湯島の街並み。清水坂を上った突き当りが湯島天神。
一見、特に特徴のない湯島の街並み。清水坂を上った突き当りが湯島天神。

武田 「月も隈なきは」に話を戻します。あの小説は短いけど、いろいろ聞きたいことがあります。例えば湯島にニューハーフ風俗があるというのは知りませんでした。湯島ってどっちかというと、ジミというか。大通りに何も面してない感じがありますよね。本性を見せない街というか。

辻原 神社仏閣の前にある街というのは、昔からいろいろあります。浅草寺があって吉原がある、江ノ島があって藤沢遊郭がある。

武田 奥本さんはわけありっぽい仕事仲間に連れられて湯島の風俗に行くんですが、出てくる「女性」なんとが聾唖(ろうあ)です。でもそこでの奥本さんとの短いやり取りが、せつなくて微笑(ほほえ)ましくて、とってもいいですね。

辻原 あまり細かくはいいませんが、インタビューさせてもらったのは徳島出身で美容師の「女性」でした。

武田 モデルがいるんですか⁉

辻原 小説とはいえ、上っ面では書けませんよ。取材は必要です。知らないで書くと、知らない人にさえリアルに伝わらないものです。しかし、ニューハーフというのは、確かに一つの「文化」ですね。僕はちょっと感動しました。

武田 なんだか湯島という街の見方が変わりますね。今日お話伺って、あの短い作品のなかに辻原さんの経験や取材がたくさん散らばっているのがよくわかりました。しつこいようですが、私は中年の星・奥本さんのファンなので、『遊動亭円木』(※8)のように連作で読みたいと思うんですが……どうでしょう?

辻原 ありがとうございます。でもまあ、一作で終わっておくからいいんじゃないですか。(笑)

※8 盲目の噺家・円木が主人公。ひいき筋の旦那、金魚養殖業者、昔の女、在留資格のない中国人とともに過ごす、楽しく、悲しく、幻想的な日々を描いた連作小説。谷崎潤一郎賞。1999年刊。

取材・文=武田憲人 撮影=オカダタカオ
『散歩の達人』2022年9月号より