源氏再興の戦いに最初から参戦した忠臣
仁田忠常は伊豆国田方郡仁田郷(現在の静岡県函南町)の住人で、治承4年(1180)の源頼朝挙兵時に一族揃って参戦。山木館攻撃から頼朝に従い、石橋山合戦では兄の忠俊が討死。自らも九死に一生を得て、頼朝とともに再起に奔走している。
その後は大庭景親を降伏させ、木曽義仲や平家追討の戦いでは源範頼に従い、九州まで転戦している。文治3年(1187)には病を得て、一時は危篤状態に陥った。その際、頼朝自らが見舞いに出向くほど、信頼されていたようだ。復帰後は奥州合戦に参戦している。
有名なエピソードは、建久4年(1193)の富士巻狩りの際に起こった曽我兄弟の仇討ちにおいて、忠常は兄の曽我祐成を打ち取ったことだ。このように、頼朝の主要な戦いのほとんどに名を連ねていた。
さまざまな義理に縛られて判断を誤る
頼朝が亡くなると、その跡を継いで二代鎌倉殿となった源頼家に従った。同時に、伊豆時代から親交が深かった北条氏との付き合いも変わっていない。建仁3年(1203)9月2日に起こった比企能員の乱では、北条時政の命に従い時政邸に呼び出された比企能員を、天野遠景とともに謀殺している。
ところが9月5日になると、病で危篤状態だった頼家が奇跡的に回復。自分が意識を失くしていた隙に、妻の実家で後ろ盾でもあった比企一族が滅ぼされたことを知ると、頼家は激怒。頼家は和田義盛と仁田忠常を呼び、北条時政討伐を命じたのであった。
和田義盛はこの命を受けると、すぐ時政に知らせた。一方、仁田忠常は時政を討つこともなく、かと言って義盛のように時政に知らせることもしなかった。どちらにも恩義を感じていたため、板挟みとなったのだ。
9月6日にはそんな態度が裏目に出た。比企能員を討った恩賞を与えるからと言われ、忠常は時政の館に呼ばれる。そしてつい長居をしてしまうと、門前で待っていた下人たちが「時政暗殺計画が知られ、逆に討ち取られたのでは」と勘ぐってしまい、急いで館に戻り忠常の弟たち(五郎忠正と六郎忠時)に報告する。ふたりは先走ってしまい、兵を挙げて御所へと攻め込んだ。結果は北条義時の返り討ちにあい忠正は討ち取られ、忠時は自害する。忠常は時政の館からの帰路、これを知るがその時には時政が放った刺客の加藤景廉に討ち取られた。まさに、実直な武士だったゆえの不幸と言える。
今も子孫に守られた小さな墓が涙を誘う
三島と修善寺を結ぶローカル線、伊豆箱根鉄道駿豆線。三島から5つめの「伊豆仁田」駅の周辺が、仁田氏が治めていた地だ。この駅から東に500mほど行った来光川のほとりに、仁田一族の菩提寺である慶音寺がある。
そのすぐ隣りが、仁田館と呼ばれている家だ。現在も仁田氏の子孫の方が住んでいて、邸内の一画には仁田忠常、忠正、忠時の墓が仲良く並んで建っていた。小さな石塔だが、周囲はよく手入れされていることがひと目でわかる。一般住宅の敷地内であるにもかかわらず、目につく場所に案内板があるので、すぐに場所がわかった。そのような好意に応えるためにも、静かな見学を心がけたい。
さらに隣りの慶音寺との境には、土塁の跡が残されている。それを見れば、ここにかつて武士の館があったとわかる。慶音寺側に回ってみると、今も水が流れる堀になっていた。
再び伊豆箱根鉄道に乗り、終点のひとつ手前の「牧之郷」駅で下車。線路に沿って「大仁」駅方面に戻ると、田んぼと線路に挟まれた小道の脇に、石垣が積まれた上にブロックで組まれた小屋と、よく手入れされた木が植えられた一画があった。それが仁田忠常を討ち取った加藤景廉一族の墓である。
景廉も頼朝の旗挙げから従っていた重臣で、数多くの武功を立てたことから鎌倉幕府を創りあげた功労者のひとりに挙げられる。頼朝からの信頼も厚く、伊豆の牧之郷だけでなく各地に領地を与えられた。その子の景朝は、遠山氏を名乗っている。
子孫には北条早雲第一の重臣、遠山直景や、江戸町奉行を務めた「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元などがいる。牧之郷駅からさほど歩かないので、修善寺観光に出かけた際には立ち寄っておきたい場所だ。
頼朝や北条氏との関わりが深い三嶋大社
頼朝は後に鎌倉幕府を開くと、配流時代に源氏再興を祈願したと伝えられている伊豆山権現を「関八洲の総鎮守」と称し、箱根権現(箱根神社)を合わせ「二所権現」として手厚く信仰・保護した。さらに頼朝は、政子と連れ立って両所を参拝する「二所詣」にも出かけている。さらに三嶋大社にも参詣したことから、「三社詣」とも言われている。
三嶋大社は伊豆国一宮として、古来より多くの人々から崇敬を集めてきた。そして伊豆に流されていた頼朝は、挙兵前に三嶋大社に参拝。源氏再興を願い、百日祈願を行ったと伝えられている。境内にはその際、警護を務めていた安達盛長が控えていた場所と伝わる松や、頼朝と政子が腰を下ろした「頼朝・政子の腰掛け石」が残されている。
静岡県内には、写しや検討を要するものを含め源頼朝の古文書が7通ほど確認されている。そのうちの4通を、三嶋大社と宮司の矢田部家が所蔵している。大社にはさらに北条義時の古文書、北条政子奉納の手箱と内容品一式が残されていて、宝物館にて公開されることがある。境内にはほかに、神池に浮かぶ北条政子勧請の厳島神社がある。市杵嶋姫命をお祀りし、安産や裁縫上達、さらに芸事上達の信仰があるという。
頼朝にまつわる史跡が点在する三島市内
三嶋大社のほかにも、三島市内には頼朝の足跡を伝えるスポットが点在している。大社の鳥居前から南に延びる下田街道を700mほど辿ると、右手に延びる路地の奥に「間眠(まどろみ)神社」がある。
この社は頼朝が源氏再興の大願をたて、三嶋大社に百日祈願を行った帰路。路傍の祠の脇に伸びていた松の大樹の下で、しばし仮眠したという言い伝えが残されている。頼朝が天下を治めた後、世人はその松を「頼朝公間眠の松」と呼び、祠を「間眠宮」と称した。
そして間眠神社の近く、住宅街の一画には、大庭景親の妻を祀る「妻塚」がある。平家に与していた景親は、三嶋大社に参拝する頼朝を見て、必ず平家に仇をなすと考えた。ある日、夕闇の中で人影を見た景親は、頼朝と思い斬り殺す。ところがその人物は、景親自身の妻であったのだ。妻は源氏と縁があったので、夫を止めようと待っていた。妻を殺したことを後悔した景親は、塚を建てて冥福を祈ったのである。現在は住宅に挟まれた地に、妻塚と観音堂が残されている。
他に頼朝ゆかりの場所としては、三嶋大社から少し三島駅方面に歩いた場所に建つ心経寺がある。もともとは法相宗の寺院であったが、頼朝の命により真言宗となった。その頃は神鏡寺と号し、三嶋大社別当を務めている。
ある日、大社の神前で般若心経をとなえ国家の安寧を祈ると、不思議な祥瑞を感じ、般若心経が空中より降ってきたという。それにより、寺号を心経寺に改めたのだ。境内は手入れがよく行き届き小綺麗で、本堂の背後に富士山が見える日もある。
最後に、すでに一度紹介しているが、三島市の隣りの清水町の八幡神社境内には、頼朝と弟の義経が初めて対面した際に腰掛けたと伝わる「対面石」がある。三嶋大社の鳥居前から旧東海道をまっすぐ西に辿れば、徒歩で50分程度。元気が余っている人は、訪ねてみてはいかがだろうか。
次回は「武士の鑑」と謳われ、頼朝旗挙げには欠かせない存在であった、畠山重忠の足跡を辿ってみたい。
取材・文・撮影=野田伊豆守