さびしさが吹きすさぶ中を歩くよろこび
五輪のために取っ払っても差し支えないほど、建物や施設は時代から取り残されていったのです。それらを包んでいたのは、ひたすらの広漠さ。古びた倉庫や、廃された貨物列車の引き込み線跡が残るばかりの広漠の地は、夕暮れともなれば銀座まですぐの場所とは思えぬほどひと気はなく、ひゅうひゅうと海風だけが鳴る。この、さびしさが吹きすさぶ中を歩くよろこび。わかってくださる人もいるでしょうか。
倉庫街のさびしさもいいですが、工場が並ぶ埋め立て地を歩くのもまた、さびしい。たとえば、横浜の鶴見や川崎の沿岸部のさらに突端ですね。そこまで行くと住宅はもうなく、ダンプやトレーラーが行き来するだけで、砂埃のあがる中をとぼとぼ歩いているのは自分だけ。生産を行う街で、まったく生産に関わらず誰にも見向きもされず歩くときのあのさびしさの良さ。
いつか迷子になれる気がして、進んでしまう
うってかわって、わざわざ人の住む場所に近寄っていって、さびしさを得るときがあります。それはたとえば、東京下町の夕暮れに歩くとき感じられます。戦災を受けず区画整理も行われていない住宅街の、大昔は農道だったような――うねった道を通っていくと、カレーや煮物の匂いが、細い路地だけにかおってきます。「ああ夕飯なんだな」、自分とは無関係のだんらんを横目に路地を進むときの、胸が少しざわざわする、心細さとさびしさの味。
知らない街へ旅するときも、さびしさを求めてしまうことがあります。地図アプリにものっていない細道を見つけると、つい進んでしまいます。ネットの普及した現代の大人はもう、迷子になることさえできません。ですが、いつか迷子になれる気がして、進んでしまうのです。
このときよく、子供の頃のある気分を思い出します。雑木林や森をつなぐように広がる郷里の田舎道。友達の家へ遊びに行くのに通る道。いまにして思えば車で10分の距離なのに、当時は知っている道を一本外れるともう異界。そんな小道にふと入り込んでしまうことがありました。
あのひとときの感じ、忘れられません。ひと気がなくて、気味が悪いような、でも何か美しいような、静かな興奮でうっとりとなる一瞬。でもさらに進むと、ふいに知ってる近所の道に出て、現実に戻ってしまう。昼下がりの不可思議なさびしさ。
さびしさが心地いい理由
さびしさに出会い頭にぶつかることは、残念ながら今やどんどん減っています。冒頭の晴海ふ頭もすっかり姿を変えました。地図にのらない、けもの道に近い生活道路や、長い年月が偶然作った草と建築のミスマッチが作る奇妙な風景は、都市からは減り続けています。
たとえば街区全体がひとつの巨大複合ビルなどに統合されると、空間の隅から隅まで設計者の意図が及んでいて、謎や偶然が入り込むスキがありません。仕方がないことではあります。ただ、人は合理性や整然さを求めながら、そこから逃げようともする不思議な生き物だなと、つくづく思わずにいられなくもなるのです。
そしてもうひとつ。ここまで書いてきたさびしさがなぜ心地がいいか。そうです、最後に帰っていける場所があるからですね。「有限の孤独」で遊べるありがたみ、決して忘れたくないですね。おっと、辛気臭い話になってきましたよ。さあそろそろ今夜あたりは、にぎやかに歩き、歌いに出るとしますか。
文・写真=フリート横田