『アビーロードの街』(1973年)
雨降る青山通りにあふれる異国情緒
『アビーロードの街』は、1973年7月には発売されたかぐや姫の『僕の胸でおやすみ』のB面に収録され、いまでもファンの間では根強い人気がある。
その4年前にはビートルズのアルバム『アビーロード』が発売されている。録音スタジオ前にあったAbbey Roadの横断歩道をメンバーが渡るジャケット写真が有名なアルバムだが、この唄もそれに感化されたものか?
Abbey Roadは二車線道路で歩道も狭い。通り沿いにはレンガ造りの古いタウンハウスが並ぶ。瀟洒(しょうしゃ)な住宅地といった感じ。青山通りとはかなり雰囲気が違う。しかし、曲が発表された当時の風景はどうだったろうか? それを眺める者たちの心情もまた、いまとは違う。
格安航空券はまだなく、1ドルの価値は360円もしていた。普通の庶民や学生にとって、ロンドンやニューヨークは宇宙に行くのと同じくらいに遠い。洋楽や外国映画が普及して憧れだけは強くなっていたのだが。
当時の東京は野暮ったくて、ロンドンと似ているのはクルマの排気ガスや工場の煙で煤けた鉛色の空くらい。公害が問題になっている頃だった。そんな東京で、青山通りはロンドンを疑似体験できる数少ない場所だったか?
アパレルブランドのVANは、1963年に本社を日本橋から青山に移転した。やがて通り沿いに店舗を何軒も構えるようになる。
「かっこいい街に本拠を構えたい」
と、創業者・石津祐介は鶴の一声で、青山への本拠移転を決めたという。ケヤキ並木の歩道が日本離れした雰囲気で、それを「かっこいい」と気に入ったようだ。
以来、青山は60年代アイビーブームの流行発信地となり、雑誌などの露出も増える。人が集まるようになれば、それを目当ての商売も増えて街は変わる。VANが進出する以前の青山は、表参道のあたりでさえ店舗がほとんどなく閑散としていたという。
また、1964年の東京五輪以前の道幅は22メートル、現在の半分しかない。表参道交差点にある『山陽堂書店』のぶった切られた店舗ビルに、拡張工事の名残を見ることができる。二車線の車道と狭い歩道、人通りの少ない閑静な住宅地の趣。いまよりもずっとAbbey Roadに近い眺めだったのかもしれない。
そういえば「青山通り」という名称も東京五輪後のこと。正式名称は国道246号線。東京を訪れる観光客の利便をはかるために「青山通り」「明治通り」などと、人々が馴染みやすい“通称”で通りを呼ぶようになったものだという。
ケヤキ並木の木々はまだ若くて低い。周辺の建物もまたそれにあわせて低かった。表参道交差点の富士銀行(現・みずほ銀行)も石灯籠と同じ背丈の平屋の建物だったという。青山通りのランドマークとなる大きなビルに建て替わったのは1976年のことである。
通り沿いには「下駄ばきアパート」と呼ばれる5〜6階建ての小規模なマンションが軒を連ねていた。上層階は住宅で1〜2階に店舗や事務所が入っている。小商いはやりやすい。歌詞にでてくるような、通りを眺めながらのんびり過ごせる喫茶店も多くあった。
新宿や渋谷で遊ぶのとは違って、地方出身の若者に青山は少し敷居が高い。通りを行き交う人々の服装や雰囲気も違って、喫茶店のガラス越しに眺める風景がかっこ良く映る。
当時、地方都市の繁華街はどこも屋根付きのアーケード。人混みの雑踏に雨が降り落ちる様、田舎者は見慣れていない。それが外国の街並みのように新鮮に映る。異文化感が半端ない。Abbey Roadもこんな感じかな。と、想像したりして。
『マキシーのために』(1971年)
彼女がめざした夢の城はどこに?
かぐや姫といえば、青山通りがでてくる歌がもうひとつ。1971年2月に発売されたシングル『変調田原坂』のB面に収録された『マキシーのために』の歌詞にある「青山にでかいビルを建てて」というフレーズが、耳に残っている。
作詞者はミリオンセラーの『神田川』と同じ喜多條忠。彼がかぐや姫のために書いた初の楽曲だった。
歌詞には実在のモデルがいる。喜多條が早稲田大学在学中の友人であり、学生運動の闘士として名を馳せた女性。女ながらに機動隊に食らいついて離れない闘争心から“ピラニア”と渾名(あだな)され、運動に挫折した彼女は60年代末に睡眠薬自殺したという。当初のタイトルは彼女の渾名をそのままとって「ピラニアのために」だったが、それではイメージが悪いとレコード会社からクレームがついて『マキシーのために』に変わる。
“マキシー”はスカートの丈、学生闘争の終焉とともに70年代に流行したマキシスカートのことだ。
その頃の街には、地面を引きずるように長いマキシスカートを履いた女性たちが闊歩(かっぽ)していた。学生運動の残香か、口を開けば理屈っぽくて面倒くさい。いまとは毛色の違った意識の高さが垣間見られたりもする。
『アビーロードの街』と同様、この曲も青山通りには違和感がある。学生闘争といえばカルチェラタン闘争があった神田とか、国際反戦デーで戦場となった新宿、あるいは、喜多條の母校である激しい早大闘争とか、そのあたりがイメージ。自由な城を築こうとした場所は、なぜ青山だったのだろうか?
その答えには拍子抜け。喜多條は文化放送のラジオ番組で南こうせつと仕事したのが、かぐや姫との出会いだった。放送局近くの喫茶店で打ち合わせして意気投合、
「いつか青山あたりにでっかいビルを建てて、みんなで夢を語れるような場所を作ろうよ」
と2人で語りあったという。金を儲けた成功者が住む場所、その象徴的存在として頭に浮かんだのが青山だったようで。実在のモデルの女性とは関係ない話だ。
しかし、少し調べてみると……青山通りも決して学生闘争とは無縁ではない。1968年11月26日、自治を要求する学生たちが青山学院のキャンパスをバリケート封鎖する騒ぎが起こった。
「ついに青山も立ち上がったか」
他大学でも大きな話題となる。青山学院大学のイメージはいまとそう変わりなく、都会的でチャラいといった感じ。先鋭的な学生たちは「プチブル大学」などと言って蔑んだ。また、女子学生が多く戦闘力偏差値はFランク、機動隊の突撃で瞬殺されそうでもある。
そんな青学でさえ「ついに」覚醒した。これは“革命”の機運が広く浸透した証拠だと、変革を信じていた60年代の熱い学生たちは気炎をあげた。
1969年10月になると、外苑近くにあった都立青山高校でも「ベトナム戦争反対」をスローガンに、生徒たちが校内をバリケート封鎖。明治公園では反戦青年委員会が主催する大集会が催され、表参道や青山通りをデモ隊が行進している。都内の他所と変わらず、青山界隈も騒がしかった。
それが翌年、70年代に入ると熱気が急速に冷めて萎む。だが、その“名残”は垣間見られる。
私服警官が長髪の若者を職務質問する脇を、マキシスカートの女学生が物憂げな表情でチラ見して通り過ぎる。時代にあわせてシラケた態度をする彼女も、あの熱かった時代をまだ鮮明に覚えている。
「ついに青山も」と、最高潮に達した革命の機運を懐かしむ思いが、歌詞の一節になってしまった。と、いうことはありえないか?
マキシー(ピラニア)が睡眠薬を飲んで力尽き倒れたのは、渋谷界隈のネオンの坂道だった。
彼女が登ろうとした坂道の先が、青山通りだったのでは?ってな、想像をしてしまう。朦朧(もうろう)とした意識のなかで、坂の上にある懐かしい場所。夢を抱いていた時代を求めて歩いていたのかもしれない。
『十七歳の地図』(1984年)
青山通りの終焉で見た夕陽
マキシー(ピラニア)がめざしたのとは逆方向、渋谷へ向かって歩を進める。青山通りの終焉に近い場所、金王坂を下ったところに渋谷クロスタワー(旧・東邦生命ビル)3階のペデストリアンデッキがある。デッキの端には『十七歳の地図』の歌碑を埋め込んだ尾崎豊記念碑が設置されていた。
尾崎の才能を発掘した音楽プロデューサー・須藤晃は『十七歳の地図』の歌詞を見た時に、歩道橋から見たのが昇る朝日ではなく夕陽というのに感銘したという。この曲は1983年に発売された初アルバムで発表され、彼のライブでは欠かさず唄われた名曲だ。
尾崎は1981年に青山学院高等部に入学し、学校からの帰りの道すがら、いつもクロスタワーのデッキから沈む夕陽を眺めていた。歌詞もその頃ノートに書き綴ったもの。青山通りに背を向けて……デッキの上から通りを振り返って見ると、金王坂はかなり急勾配。下るのは容易(たやす)いけど、登るのは辛い。
青山通りは並行する六本木通りとは違って起伏がない。金王坂を登ると、赤坂までほぼ平坦に下ることなく道はずっと高台を通っている。「高台」という地形もまた、上流とか高級といった感じで、そこに通じる急坂は庶民が越えるに難しい結界か。
「夕陽」に感銘した須藤は、wikipediaによれば1952年の生まれとなっている。学生闘争の60年代末に高校時代を過ごした世代だ。明日の変革を信じる熱い若者たちには、後ろを振り返って沈む夕陽に魅せられる感性などはなかったのかもしれない。
越えられない道はない。いつも前だけを見て、坂道の先の高台をめざす。マキシーのように。そういった時代を生きた者には、80年代の高校生の感覚は理解しがたい。人は自分が理解できない不可思議な存在に、関心や魅力を感じたりもする。
今風と粋がって挫折したりシラけたり。そのまま10年も過ぎれば、疑問視することなくそれが普通になってくる。もはや街並みにロンドンを垣間見るとか、ビルを建てようなんてバカな夢は抱かない。青山通りの登り坂に背を向けて、渋谷の谷底に沈む夕陽を眺めて……と、あれ?
デッキから夕陽を望む方角には、2018年に渋谷ストリームが完成している。地上35階の高層ビルが壁のように立ちはだかり、いまは夕陽を見ることができない。考えてみれば歌詞にあるのは30年前の風景だ。人の感覚と同じように、街の風景も激しく変わりつづけているのだなぁ。
取材・文=青山 誠