ノストラダムスの予言が外れバーテンに
マスター、吉益耕一郎さんは日吉で生まれ育った48歳。高校卒業の翌日にこの地を飛び出し、住み込みで新聞配達をする。2年ほど働いてお金を貯め、ワーキングホリデーでオーストラリアへ。「オパールとピンクダイヤモンドが名産品だから」という理由で宝石屋で働くが、全く売れず、ここで人生最初のクビを経験する。
帰国後は洋服屋やバイク屋などで働いていたが、1999年にノストラダムスの予言が外れ、人類が滅亡しなかったので「真面目に働こう」と思いバーテンダーへ。
バーテンダーを選んだのは、人とのコミュニケーションが苦手で、まともに話せるようになりたかったから。またお酒が生き甲斐であるため、仕事中に飲めるというのも要となった。
バックパッカー、そして5回のクビを経験
まず自由が丘や横浜、六本木などのBARで働いたが、なかなか続かず、向いてないと感じたら宅急便の仕事を途中で挟むこともあった。
海外旅行が好きで、お金を貯めてはバックパッカーとして渡航し、インドには半年間放浪。その他、ネパール、タイ、ベトナム、マレーシア、フィリピン、カンボジア、メキシコ、アメリカ、ブラジル、オランダへ。最初は単なる旅だったが、途中から将来の移住先候補を探す旅となる。移住したい理由は日本が寒いから。ちなみに移住先探しは現在進行形であり、気づくと店を人に任せ、海外に放浪していることもある。
その後も銀座のクラブでバーテンをしたり、有楽町の焼き鳥屋で働いたが、合計5回のクビを経験し、最終的に新橋の居酒屋で落ち着く。ここでは非常に可愛がられ、社員にも誘われたが、もともと自分の店を出すことが夢だったので断り、十分に経験を積んだのと、積みすぎてもよくないといよいよ出店の準備をする。
生まれ故郷の日吉に五角形の物件を見つける
最初は東京を考えていたため、中央線カルチャーのある高円寺や阿佐ヶ谷、また吉祥寺や下北沢などで探したが、なかなか良い物件に巡り合えず。そんなとき15年間忘れていた地元・日吉のことがふと閃き、2軒目で現店舗が見つかる。マスターいわく、ここが地獄の一丁目。
決め手は立地7割と、角地で見つけてもらいやすく、ちょうどいい広さだったから。契約後、新橋の居酒屋で働きながら、10ヶ月かけて1人でお店を作った。
内装のコンセプトは「空中庭園」。東南アジア、インド、ネパールなどでのバックパッカー時代の放浪が役に立ち、家具などはタイのマーケットで買いつける。自分の中に蓄積してきたものでしか表現できないとマスターは振り返る。店名は五角形の間取りにちなんで、ペンタゴン。
チャクラが開く社交ラウンジ
2008年4月オープン。お客さんがいっぱい来たらどうしようと心配していたが、はじめてみると全くで、悩みすぎて具合が悪くなってしまい1ヶ月で一旦休業する。これじゃダメだと、新しく看板を作ったり内装に手を加えたりして6月に再オープン。しかし集客は変わらずで、1年半くらいずっと赤字が続いた。
しかしコツコツと真面目にやっていたことで徐々に軌道にのるようになり、今では常連客の社交場となっている。土地柄、地元の方をはじめ、学生の頃から住み続けていたり、戻ってきたりする慶應義塾大学のOBも多く、時にはアカデミックな会話になることも。マスターはそういう時はただただニコニコしているという。
3階という入りにくさゆえか、開拓精神があり面白いお客さんが集まり、また1人客が圧倒的に多いので、カウンターで喋っているうちに顔馴染みになっていく。私も何度か行っているが、本当にお客さん同士顔見知りで、多様な会話で盛り上がっている。もちろん1人しっとり飲む方や友人や恋人同士のグループもいらっしゃる。
店内は16席ほど。カウンターは短めで基本3席だが、チャクラが開けば5人はいけるそう。癖があると言ったが、マスターは極めて温厚で聞き上手。落ち着くアジアンテイストがアクセントのおしゃれな隠れ家的BARである。是非、近くにお越しの際は日吉のほがらか社交ラウンジを体験して欲しい。
取材・文・撮影=千絵ノムラ