元職人、江戸っ子のご主人が作る定食屋さん
東京メトロ東西線神楽坂駅を出て約10分。早稲田通りを早稲田大学の方向に進んでいくと、右側にそこだけ樹々が豊かに生えている一角が現れる。道には金太郎のような前掛けをしたかわいいクマが描かれた看板。
茂み中央の緑のトンネルを分け入るように進んでいくと(といっても数メートル)、「ここは絶対おいしい店」であることを予感させるボードいっぱいの手書きのメニューが立てられた入り口に到着する。
訪れた時刻はお昼時を少し外した午後1時半。にもかかわらず、店内の席はカウンターの数席をのぞいて満席。厨房にはねじり鉢巻きのご主人、そして料理を運ぶ奥様が一瞬も止まることなく立ち働いている。
そしてカウンターの外ではもう1人、スラックスにワイシャツの男性が、できあがったばかりの定食をテーブルに運んでいる。ご主人自らも厨房から出てきてできあがった定食をお客さんに運ぶ。そして通り際、筆者に小声で「あれね、お客さん」と先のワイシャツの男性をちらっと見ながらささやく。まだご挨拶も終わっていない状態で、早くもこの展開。一瞬でリラックス。
『ろくでもない喰いもの屋 くま』が開店したのは1986年。「家が父の代からのとび職だったから、高校を出してもらって当然のようにとび職になった。だけどある日ビルの現場に行ったとき、屋上から360度、町の様子を見渡すことがあった。そうしたら建設中のビルにまったく足場がかかっていない。その時に『こりゃだめだ』と思ったね。この仕事はこの先難しいと感じたよ。それで定食屋をはじめた」とご主人の竹川勝次さん。
もともとこの場所は2階に自宅があり、1階はとび職で足場を作るために使う資材を置く場所だった。その1階を改造し、店をオープンした。
常に変わり続けて今のメニューにたどり着いた
当初は勝次さんがお酒が大好きなことから、沢山の地酒を置いた魚料理の店だったとのこと。今のような定食を出すようになったのは、お客さんの様子を見ながら出すものを時代ごとに変えてきた結果。
「結局長い間に生き残ってきたメニューが今ここにあるものだね。日替わりのメニューを出し始めたのもお客さんのため。毎日来てくれる人たちに違うものを食べてもらうために始めたもの」と勝次さん。
壁には、あれもこれも食べたい! というお客さんの贅沢な気持ちにこたえるように、複数のおかずが組み合わされたセットメニューがたくさん並んでいる。
本日の注文はご主人、勝次さんおすすめの日替わり定食800円。牛挽入りコロッケ+生姜焼、それにトッピングのハムエッグ。トッピングはハムエッグ、冷奴、納豆、玉子豆腐の中から選ぶことができる。
待つこと数分。運ばれてきた定食に思わずのけぞる。サラダが添えられた巨大なコロッケにハムエッグの一皿。そして同じくサラダ付き豚の生姜焼き。それぞれのおかずはほかの定食屋さんであれば立派に一人前の分量。つまり二人前のおかずにご飯とお味噌汁という構成だ。
コロッケは大人のこぶしくらいのまさにボリューム満点の一品。「最初はそのまま食べてみて」という俊子さんのご指導通り一片を食べてみると、ちょっと塩味が効いていて、それが芋の甘さとちょうどよく、自然にご飯に手が伸びる。
生姜焼きは、おいしい豚の脂身が堪能できるバラ肉。やや甘さが勝った甘辛ダレがたまらない。コロッケ、ご飯、生姜焼き、ご飯、ときどきみそ汁。視線はずっとテーブルの上。目の前に好きなものしかない幸せ。
コロッケは結局ソースの力を借りずに完食。本日のコロッケが登場するのは日替わりメニューのみ。だいたい週に1回程度登場するとのこと。出合ったお客さんの多くが注文する人気メニューだ。
もちろんほかのセットメニューのどれもが魅力的。毎日通いたくなる店とはこういうお店のことだろう。
寝る間を割いて仕込み作業をする毎日
昼の11時半から14時という昼の短い営業時間の間に、多いときで30人から40人のお客さんが来店するとのこと。ほとんどがセットメニューのため、1人の注文に二人前の料理をしているのと同じと考えれば、その忙しさは容易に想像がつく。
これをご主人と奥様の2人でやっていくためにはとにかく開店前にすべての下ごしらえをしておくことが必要。そのため毎日朝の4時から、煮物が日替わりの日には2時から仕込みの作業。まさに寝る間を割いて仕込みを行っている。「どうしてもすべて手作りだし、どこも手を抜けないから時間ばっかりかかってしまうんだよね」と俊子さん。
インタビューに即座にポンポンと答えてくれる勝次さんは気風が良くて腹に何もない、まさに江戸っ子を絵にかいたような方。しかし、奥様の発言中はあまり口を挟まない。言いたいことがあってうずうずしているのに、奥さんが喋る合間をきちんと見はからって軽快に言葉を挟む。テンポの良い2人の会話に自然にこちらも笑いが浮かんでくる。
「俺は客にだって何でも言うよ」とスパッと言うものの、営業中の様子を見ていると実にやさしく若い人に言葉をかけている。忙しい中一瞬手を止めて、お客さんとの会話を心から楽しんでいる。あー、本当にかっこいい。
客もそんなご主人に対して「今日ほかのもの食べちゃってコロッケ食べられなかったのでまた来ます」と言葉を残して帰っていく。
ちなみに店名についている『ろくでもない喰いもの屋』の意味を訪ねると「俺がろくでなしだから」とのお答え。「でも、ろくでもない料理でも、こんなに喜んでもらえるんだからさ」と。どこまでもカッコいいご主人なのであった。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=夏井誠