その友人、柊子(仮名)は同い年で、お互いが21歳になる年に出会った。私が専門学校の二年生に進学した日、彼女が一年生として入学してきたのだ。
入学式の日、よく話す先輩が中庭で小柄な女の子と話していた。二人とも植え込みのブロックに腰掛け、煙草を吸っている。通りかかった私が話しかけると、先輩は「よく行く飲み屋で会うんだよ」と女の子を紹介してくれた。彼女は全身真っ黒の服装で、髪は赤に近い茶色、耳には5つのピアスがついている。
彼女は「柊子です」と名乗った。漢字を尋ねたら「木偏に冬」と言う。私はなぜか柊(ひいらぎ)という単語が出てこず、「疼痛(とうつう)の疼みたいなやつ?」と返したのだが、柊子は鈴のような可愛らしい声で控えめに笑った。パンキッシュなファッションのわりに、おとなしそうな印象の子だ。
柊子と私は、二人とも小説を書いていた。そのせいか私たちはすぐに仲良くなった。学校でもよく話すし、学校以外でもよく遊ぶ。以前書いた吉祥寺のエッセイに出てくる「ハモニカ横丁を教えてくれた女の子」とは柊子のことだ。また、柊子を含む数人で小説の同人誌を作ったこともあった。
柊子は謙虚で思慮深い女性だ。ぎゃーぎゃーと自分の話をせずにはいられない私と違い、彼女は「うんうん」とひとしきり相手の話を聞いてからさりげなく自分の意見を述べる。彼女の考えは私のそれよりずっと視野が広く、大人だった。
そういえば、彼女は名称がメビウスに変わる前のマイルドセブンを吸っていた。メンソールじゃない、重めのやつだ。私は当時、アイシーンというやたらスース―する煙草を吸っていてみんなからバカにされたものだが、煙草の銘柄ひとつ取っても、やっぱり柊子のほうが大人っぽかった。
私は柊子の書く小説が好きだった。派手な展開はなく、誰しもが日常の中で抱く感情をつぶさに観察して描写する。そして、どの物語もドライなようで温かい。柊子が書く物語には、彼女の人柄がよく表れていた。
卒業後、私は山小屋で働くフリーターとなった。一方で柊子は脚本家を目指し、バイトをしながらある有名な脚本家の先生のアシスタントをしていた。
いつ頃からかは覚えていないが、柊子は髪色が暗くなりピアスが減って、煙草を吸わなくなった。私も、派手な格好をしなくなったし煙草もやめた。たぶんお互い「年齢や社会に合わせた」という意識はなくて、なんとなくそうなったのだと思う。そして、二人とも30歳前後で結婚した。
結婚後、柊子夫婦は不妊治療をしていたらしい。その甲斐あって、5年前に娘の華ちゃん(仮名)が産まれた。以来、柊子は専業主婦をしている。アシスタント業務は子育てが落ち着くまでほとんどお休みしている状態で、たまに在宅でできる作業をしているようだ。
柊子が母親になってから、私たちは会う頻度がぐんと減った。たぶん柊子は子育てでそれどころじゃないし、私は「柊子は忙しいだろうな」と思って自分からは誘わない。子供がいない私は、子供がいる人の生活リズムがわからないのだ。今はお風呂に入れている時間だろうか? 寝かしつけ中だろうか? そう思うと、若い頃のように「今なにしてる?」と電話をかけることも躊躇われる。
もしかしたら、柊子は柊子で「サキちゃんは〆切前で忙しいかも……」と気を遣い、私に連絡してこないのかもしれない。なんとなく、そんな気がする。
劇場のパイプ椅子に座って開演を待っていると、柊子がやってきた。3年ぶりだが、見た目はまったく変わらない。彼女は私に気づき小さく手を振ったが、私の隣はもう別の人が座っていたので、少し離れたところに座った。
なんとなく見ていると、彼女は鞄から単行本を取り出して読みはじめた。すき間時間にスマホをいじるのではなく本を読むところが柊子らしい。
終演後、柊子に声をかけた。もともと同じ日の公演を観ることはわかっていて、終わったらお茶しようと約束していたのだ。
「サイゼリヤでいい?」
サイゼリヤの場所はグーグルマップで確認済みだ。しかし、向かっている途中で方向がわからなくなり、立ち止まってグーグルマップを開く。
「えーと、地図上の2つの目印と照らし合わせて……」
私が言うと、柊子は「吉玉サキの本で読んだやつだ!」と笑った。
無事にサイゼリヤに到着し、それぞれドリンクバーを頼んだ。
柊子の夫と華ちゃんは、昨日から夫の実家にお泊まりしていると言う。柊子は「こんなに華と離れてるの、華が生まれてから初めて。落ち着かない」と笑った。
「昨日もさ、一人の時間ができたらやりたいことたくさんあったのに、いざとなったら何していいかわからなくなって。結局、アマプラでドラマ一気見しちゃった」
「ドラマ一気見、有意義じゃん。私もしたい」
それからしばらく、ドラマや漫画の話をした。こういう話をしていると学生時代とまるで変わらない。だけど、だんだんと家族やラン活や医療美容の話題になり、大人になったことを実感した。
何杯目かのドリンクを飲みながら、柊子が言った。
「華が生まれてから、生活の中心が華なの。そしたらね、自分の感情がぜんぶ、華のためのものになっちゃって。華がうれしかったら私もうれしい、華が泣いていたら私も悲しい、みたいな。でも、それって華に依存してるってことじゃない。いずれ華が私の手を離れたとき、私は自分を取り戻せるのかな」
華ちゃんは来年から小学生で、柊子は自分の時間が増える。そのとき、からっぽにならないかが心配なのだそうだ。
「私、この5年間ずっと『華のママ』で生きてるから。ちゃんと『柊子』に戻れるのかな。もう、『柊子』がどんなだったか思い出せないの」
子供を育てる女性が、ママとしての自分以外を失うという話はよく聞く。昔観ていた『名前をなくした女神』というドラマも、お互いを「〇〇ちゃんママ」と呼び合って名前を呼ば(れ)なくなった女性たちの物語だった。
自分を失うとか取り戻すといった感覚は、私にはよくわからない。私にも「吉玉サキとしての自分」と「本名の自分」がいるはずだが、どっちも自分だ。しかし、共感できないことが柊子の感情を軽視していい理由にはならない。私が感じたことのないその不安を、柊子はたしかに感じているのだから。
「私にとっては、華ちゃんといるときの柊子も、今目の前にいる柊子も、同じなんだけどさ。でも、柊子が柊子を取り戻せるように手伝うよ」
私はプチフォカッチャにジェラートをつけながら提案する。
「とりあえずいっぱい誘うからさ、華ちゃんがいないときに、できるだけこうやって会おうよ。私といるときは『柊子』でしょ? そうだ、もうすぐ推しが出る映画が公開されるんだよね。一緒に行かない?」
その映画の予告動画を見せると、柊子は「面白そう!」と目を輝かせた。
子供のいる人生といない人生は、どちらか片方しか選べない。
当たり前なのだけれど、「その仕様、ちょっと厳しすぎじゃない!?」と思う。だって私の気持ちはずっと、子供が「ほしい」と「ほしくない」のちょうど中間あたりにあるから。決断を先延ばしにしつづけたから。
一方で、柊子は子供を持つことを選択し、決断した。そして、一人の人間を生かしている。本当に素晴らしいことだ。私は心底、彼女を尊敬する。
同時に、私は自分の人生も悪くないと思っている。私と柊子の人生は別物で、交換することも、足して2で割ることもできない。だからこそ面白いんだよなぁ、と思う。
王子から電車に乗り、私と柊子はそれぞれ別の駅で降りた。
小田急線に乗り換えて座っていると、幼稚園児くらいの女の子とお父さんが乗り込んできて、私の隣に座る。右腕に温かな重みを感じて見ると、女の子が私にもたれかかって眠っていた。それに気づいたお父さんが女の子を起こそうとしたので、私は「このままで大丈夫です」と言った。女の子は温かくて、触れた部分がじっとりしていた。
柊子にはなじみのある感触なんだろうなぁ。
女の子を起こさないように、私は町田駅までじっとしていた。
文・写真=吉玉サキ(@saki_yoshidama)