名曲喫茶の面影を今に残す老舗
JR新宿駅東口から約5分。駅前のロータリーを越えたところから真っすぐ進む通りを行くと、周りのビルとは趣の異なる煉瓦でデザインされた名曲喫茶『新宿らんぶる』の入り口が目に入る。
入り口を入ると、そこは20席ほどの一見こぢんまりとした喫茶店。しかし左手の階段を地下へと降りていくと、外からはまったくイメージできないような広大なフロアが現れる。
地下は二層構造になっていて、階段を下り立ったフロアからさらに赤い絨毯が敷きつめられた広い階段を下り、赤いビロードのソファーが並ぶフロアに至る。2階分ある高い天井には大きなシャンデリアが2基。壁際にもクラシックなデザインの照明がいくつも取り付けられている。まるで昭和の映画のセットのような、まさに「らんぶる(琥珀)」を感じさせる空間だ。
名曲喫茶『新宿らんぶる』がここ新宿に開店したのは1950年のこと。当時、レコードのLP盤が出回り始めたが、まだまだ音楽はラジオで楽しむ時代。レコードプレーヤーも家庭にはあまり普及しておらず、レコードを鑑賞する個室を持っている人も少なかった。
そんな時代、お店でかかるレコードを楽しんだり、入手した高価なレコードを持ちこんで鑑賞したりする目的で、1940年代から1950年代にかけて、新宿をはじめ東京の盛り場には多くの名曲喫茶が生まれた。ここ『新宿らんぶる』もその1つ。
「もともとは私の祖父母が1950年に始めたお店です。1955年に区画整理のため現在の場所に移転してきたのですが、当時地上3階、地下1階の大型店舗で、400人を収容する日本最大級の喫茶店でした。祖父が大のクラシック好きで、音響装置にこだわった店にしたのがはじまりだったとのことです」と創業者のお孫さんで店長を務める重光康宏さんが当時のことを教えてくれる。
レコードコンサートを楽しんだ時代の雰囲気を感じて
「祖父の時代に来ていたお客様の話によると、当時はレコードによるコンサート会場のようなお店だったと言います。大きなステレオセットがあり、座席はすべて正面のスピーカーに向かうように並べられ、私語は禁止。コーヒーを飲みながら名曲をひたすら楽しむ場所でした。お客様からのリクエストを受け、演奏される(かけられる)レコードの解説やプログラム編成などを行う専従スタッフに元NHKのアナウンサーを雇っていたと言います」と重光さん。
店にはその日かけられるレコードのラインナップが書かれた1か月分のプログラムが置かれ、店の音響装置には各部分ごとにメーカーと種類の解説が付けられていたという徹底ぶり。当時の音楽への熱気を感じるお話だ。
現在のお店でもクラシックを流しているが、あくまでもBGMであるとのこと。それでも午前中のまだ混みあっていない静かな時間には、名曲を楽しみながらこの懐かしい空間でゆったりと時間を過ごしたい常連さんも来られるそうだ。
変わらないことの大切さを感じながら
本日いただいたのは、一番人気のアーモンドミルクケーキとブレンドコーヒーのセット。アーモンドミルクケーキは店長イチ押しのケーキでもある。
さっそくケーキを一口。きちんと甘い。昔ながらの甘いケーキ。甘さ控えめのケーキが多くなっている昨今、しっかりと甘いケーキは久しぶり。とても幸せな味がする。ケーキは、長年お付き合いのある業者が、『らんぶる』用の味として製造したもの。もう数十年も変わらない味を提供し続けているという。
そしてコーヒーもこだわりの一品。コーヒー豆を厳選し、同じ豆を深煎りと浅煎りの2つの方法で仕上げている。2つをブレンドすることで深みと香りの両方を味わうことができるとのこと。確かに味に深みがあり、何より最近あまり口にしない厚みのある味がする。
「新宿は本当にいろいろな方がご来店されます。デパートで買い物をすませたご様子の方、会社勤めの方、水商売風の方、劇団風の方。最近ではレトロな雰囲気を楽しみに若い方もお見えになるようになりました。どんな方にも、家とはちょっと違う形でくつろいでいただける場所であることをいつも心がけています」と重光さん。
新宿の駅前のこの地域は古くからやっている店が多く、お店同士のお付き合いも盛んであるとのこと。老舗喫茶店の店長である重光さんも、こうした交流を通し、近隣のお店の情報に通じている。
「お客さんから、このあとお酒を飲みに行きたいんだけど、とかデートに行くにはどこが良い? 予算このくらいでおいしいもの食べられるところは? といったことを聞かれることもあります。そんな時は私の知っているこの町内の本当に良い店をご紹介しています」と重光さん。
そんなことをここで言ったら大変じゃないですか? との質問に、「大きな店ですからついサービスも画一的になりがちです。そうならないように気持ちを込めた接客をしよう、といつもスタッフと話し合っています」とのご返事。
1年に一度、昔の友人同士が集まり、近くにある天ぷらの名店『つな八』で食事をし、ここに来るのを定番にされているお客さん。祖父の時代から来店し、先ほどの純粋な名曲喫茶時代のことを教えてくれるお客さん。昔この店で出会い結婚されたシルバー世代のご夫婦。本当にさまざまなお客さんが時代を越えて訪れる場所。
お店に入ったばかりの若いころには「何とか新しいものを取り入れなければ」という思いもあったが、今は逆に変わらないことの大切さを強く感じている。「皆さんに本当にいろいろなことを教わりながらお店をやってきています」とニコニコしながら重光さんは語る。時には1人で、こんな日常から離れた空間で過ごす時間を持ちたいものだ。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=夏井 誠