創業1964年、新宿の純喫茶の老舗
JR新宿西口から徒歩約2分。今も昭和の香りを色濃く残す“思い出横丁”。その一角にひときわ重厚、そしてレトロな雰囲気で目を引く老舗喫茶店『但馬屋珈琲店 本店』がある。
木目の扉と、柱。ガラスケースに入った人気メニューのサンプル。扉の上には『但馬屋珈琲店』と刻印された、これも木製の大きな看板。そしてガラスの向こうにはちょっと暗めの空間を、優しい暖色の照明が照らしているのが見える。
扉を開け、中に入ると右手にカウンター。左手にはイスとテーブル。いずれも木製でダークブラウンの色調に統一され、会話まで静かになってしまうような落ち着いた空間が自然に作り出されている。
その中でアクセントとなっているのが、カウンターの後ろ、壁一面の棚に並べられた大量のコーヒーカップ。すべてが異なった美しいデザインのもので、一つ一つ作品のようにじっくりと観察したくなる。
お店は2階にもあり、階段を上っていくと1階よりもさらに長いカウンターが伸び、その背面にも同じようにコーヒーカップが隙間なく並んでいる。カウンターの上部には、明かりというよりランプと呼びたくなるようなレトロなデザインの照明が優しく手元を照らし、カウンターの向こう側では、エプロンを付けた紳士が静かにコーヒーを淹れている。
コーヒーだけでなく空間全体の価値を感じていただく
『但馬屋珈琲店』がこの地で純喫茶として営業を始めたのは、1回目の東京オリンピックが開催された1964年のこと。最初は純喫茶「エデン」という店名だったが、1987年に創業者の出身地である兵庫県但馬から『但馬屋珈琲店』とした。
当時の東京の喫茶店では、コーヒー1杯が300円前後。この時代に『但馬屋珈琲店』では1杯500円でコーヒーをご提供した。
「安さでお客さんにアピールするのではなく、コーヒーの品質、店内の空間にこだわることで、顧客の支持を得る。この考え方は現在のお店にも引き継がれています」と語るのは『但馬屋珈琲店』を経営される会社の常務で、創業者のお孫さんでもある倉田光敏さん。
「500円以上が高価格帯と言われる中、うちでは現在、特撰オリジナルコーヒーを780円で提供しています。もちろんおいしいコーヒーをご提供するのは大前提ですが、それだけではなかなかお客さんに来てもらえません。場の雰囲気、内装、カップ、接客、その空間全体に価値を感じていただくことで皆さんに来ていただけると思っています」。
その言葉通り、お店に一歩足を踏み入れた途端、店の雰囲気に包まれるように不思議に落ち着いた気持ちになる。1人で来店しても何の違和感もなく、複数人で来店して話をすることも受け入れてくれる奥深さがこの空間に感じられる。簡単に言ってしまえばひどく居心地が良い。そんな空間なのだ。
この落ち着いた空気の中で、壮年の男性の一人客が本を読んだり、ぼんやりと店内を眺めたりしながらコーヒーを楽しんでいる。意外に思えたのは、若い女性が思った以上に多いこと。「最近、レトロな雰囲気を楽しみたいという若い女性も沢山来店されるようになりました」と倉田さん。
焙煎、ドリップ、カップ。すべてにこだわり抜いたコーヒー
先ほどカウンターの中でコーヒーを淹れていた紳士の正体は、店長の大久保清作さん。静かにコーヒーを淹れている姿が実に良い。
すべて店内で焙煎している『但馬屋珈琲店』のコーヒーのおいしさの秘訣を、倉田さんが教えてくれた。「今世間では、焙煎の時間が短い浅炒りが多く、焙煎後の豆も細かく挽いて、あっさりした味のコーヒーが多くなっていますが、うちはその逆。焙煎時間の長い深煎りで、挽き方も粗挽きで行っています。深煎りで粗挽きだと、深い味わいとなり、雑味が出にくく、まろやかなものとなります」。
ただ深煎りにした場合、豆から水分が抜け同じグラムでも豆の粒が小さくなる。さらにそれを粗挽きの状態で使用するため、より多くの豆を使用することになるとのこと。通常1杯のコーヒーを淹れるのに10g程度の豆を使用すると言われているが、ここでは倍以上の23gを使用している。
こうしてできた豆をネルドリップ(布製のフィルター)で淹れることで、豆に含まれるおいしい油分を抽出し、その風味を味わうことができるんだそう。
なるほど、その日楽しんだ特撰オリジナルコーヒー780円は、お店の雰囲気と相まって、濃厚なのにまろやかな、とても余韻を残す一杯だった。
そして一緒に楽しんだのが、お店の人気メニューの1つ、珈琲ぜんざい。この上品な甘さが実にコーヒーと合う。そしてこれも奥深くまろやかな味。一口食べるごとに、まるで生クリームの入ったコーヒーを飲んでいるような感覚。おいしい。
珈琲ぜんざいについて、店長の大久保さんに聞いてみると「深煎りコーヒーを使ってお店で手作りしたものです」とのお答え。深煎りに焙煎し、ネルドリップし、ゼリーに。大変な工程を経た一品である。
最後に気になっていたコーヒーカップについても伺ってみた。「比較的お客様が少なく余裕がある時には、お客さんのお好みのカップでお淹れすることもあります。いつもはお客様の服装など雰囲気に合わせてこちらでカップを選びコーヒーをお出ししています」と大久保さん。
「若い方にも、このちょっと背伸びしたような大人の空間をぜひ楽しんでいただきたいですね」と倉田さん。さてさて、皆さんには果たしてどんなカップでコーヒーが提供されるのか。これもちょっとした楽しみ。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=夏井 誠