江戸時代に生まれ、時代の波を潜り抜けてきた蔵
2022年4月某日、『Gallery éf』があった場所を訪れるとまさに工事の真っ最中。通りに面して立っていたカフェはすでに解体され、その陰に隠れていた蔵があらわになっていた。江戸時代、この界隈は浅草材木町と呼ばれ、地名が示す通り材木問屋が集中していたという。慶応4年(1868・明治元)に上棟されたこの蔵も、元々は材木問屋「竹屋」の持ち物だった。
この蔵を建てたのは、三代目竹屋長四郎の妻・い勢と息子の小三郎。2階天井の梁には当時の墨書銘が残されていて、「慶応四戊辰年 八月吉日 三代目竹屋長四郎 妻 い勢 伜 小三郎 建之」とある。大正12年(1923)の関東大震災を境に、この辺りの材木問屋は木場(江東区)に移り、竹屋もやはりここを離れた。そして新しい主となったのが、『Gallery éf』のオーナー・村守恵子さんの祖父が営む淵川金属事務所だった。
蔵は会社の倉庫として使われた。昭和20年(1945)の東京大空襲で周囲は焼け野原になったが、それでも生き残り、引き続き役目を果たしていた。昭和、平成と年月が経ち、お祖父さんの後を継いだお父さんも亡くなり、村守さんは会社を整理することにした。だが買い手は現れず、村守さんはこの蔵に通い、いろんな人との出会う中で、次第に蔵の魅力を再発見してしまう。そして表現の場=ギャラリーに生まれ変わらせようと立ち上がることになる。
第2の人生で人の流れが生まれた
とはいえ、年季の入った蔵は改修が必要だった。プロデューサーとして工事の指揮を取ったのは、漆造形作家の鍋島次雄さん。そこに、皇居やニコライ堂の修復を手掛ける腕利きの左官職人、文化財級の寺の瓦を修理している瓦職人が加わり、多くの若手作家も「昔の職人仕事や伝統的な工法に触れられるなかなか体験できないこと」と張り切って参加した。
「蔵が人を呼んだのだと思います」。
そう言って、言葉の意味を噛み締めるように村守さんは微笑む。
たくさんの人の熱意によって切り開かれた、蔵の第2の人生。再生した空間では、作品の展示や演奏会が行われるようになった。10回以上漆を塗り重ねた床板はきれいな艶があり、壁にかけた作品が水鏡のように映り込む。足触りの柔らかい漆の床、太い木の柱と梁、経年変化し風合いを増した漆喰が、訪れる人を優しく迎え入れた。
故郷からの旅立ち。新天地で人生は続く
今回の再開発で蔵の存続が再び危ぶまれたが、その危機を救ったのは、台東区の文化財保護審議委員会委員も務める建築史家の稲葉和也さん。何を隠そう稲葉さんこそ約25年前、取り壊し寸前の蔵をくわしく調査し、村守さんに魅力を気づかせてくれた人だ。
高床式の2階建て、妻入(つまいり)で、これを支えるのはヒノキ材の柱や貫、マツ材の梁。柱の径は16cmと太く、稲葉さんによると「これが震災をも乗り越えられる耐震性をもたらしたと考えられる」そうだ。
稲葉さんが尽力してくれ、2021年の冬、蔵の嫁ぎ先がめでたく決まった。次の主は調布市にある深大寺だ。『Gallery éf』が蔵と一緒に営業する最後の日、住職の実弟で深大寺執事の張堂芳俊さんが花束を持って来てくれた。深大寺境内では、本堂を会場にしてコンサートを開くことがあるそうで、移築後の蔵もまた人の集まる場所になる。
解体された木材は工場で洗浄し、準備が整うまで保管される。復元する際は骨組みや床板など、使える部分はなるべくそのまま使い、構造や工法もできる限り元の形を踏襲する予定だ。
「さらに100年先、200年先まで続いていく」という村守さんの言葉にわくわく。
蔵はやがて第3の人生を迎えることになる。
取材・撮影・文=信藤舞子
↓5月13日、台東区寿でカフェ&バー部分が再オープン↓
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雷門(旧材木町)竹長材木店の蔵を深大寺に移築、保存するための募金のお願い。
【追記】平成に蘇る江戸の蔵~『散歩の達人』1997年5月号より抜粋
1997年の春、月刊『散歩の達人』に「平成に蘇る江戸の蔵」と題した一本の記事が掲載された。築100年以上の蔵が『Gallery éf』として再出発するまでを追ったドキュメンタリーである。蔵がいかにして建てられ、村守さんに引き継がれ、一度は整理しようと心を決めたものの引き継ぐこととし、東京藝大生たちなどの強い味方が集まってギャラリーへと生まれ変わった過程を綴った活気あふれた記事である(取材・文=石崎 直 撮影=塩澤秀樹)。『Gallery éf』オープンが発売後にずれてしまったため、開店後の写真がないのが残念。奇しくも散達初期B5判の最終号でもあった。