静御前が舞った若宮廻廊跡に建つ舞殿

参拝客でにぎわう鶴岡八幡宮。
参拝客でにぎわう鶴岡八幡宮。

鎌倉はもともと人気の観光地だが、2022年は大河ドラマの影響なのだろう。どこへ行ってもすごい人出に驚かされる。まさにコロナ禍からのV字回復といったところか。人気の飲食店が集まる小町通りを抜け、二の鳥居から段葛を辿り鶴岡八幡宮を目指したのだが、とにかく人が多くて歩くのが大変だった。

鶴岡八幡宮では義経の愛妾であった静御前が、頼朝夫妻の求めに応じて舞を披露したという舞殿へと向かう。文治2年(1186)、静は義経とともに都を離れたのだが、吉野の山中で別れた後に捕らえられてしまい、鎌倉に連れてこられた。この時、静は義経を恋慕する「しづやしづ しづのをだまきくりかへし 昔を今に なすよしもがな」という歌とともに、見事な舞を披露したというのだ。

静御前が義経を慕い舞った若宮廻廊跡に建つ舞殿。
静御前が義経を慕い舞った若宮廻廊跡に建つ舞殿。

義経の子を身ごもっていた静は、それから間もなく男子を出産する。女子ならば助命されたのだが、男子だったため頼朝の命により由比ヶ浜で海中に沈められた。その後、静は京へ帰されるが、末路はわかっていない。

現在の舞殿は静が舞った若宮廻廊跡に建てられたもので、下拝殿とも呼ばれている。今もさまざまな行事が執り行われているため、境内でも人気のスポットだ。

兄弟の亀裂を決定づけた人物の邸宅跡へ

続いて足を運んだのは、土佐坊昌俊の邸宅があったとされる場所。鶴岡八幡宮の東側を通る小町大路の、宝戒寺入口から少し南側の民家の間に、邸宅跡を示す石碑が建てられている。ドラマでは比企の娘が土佐坊に、静を襲うように依頼したことになっていたが、一般的には頼朝の命だったと言われている。土佐坊は誰も引き受ける者がいなかった義経追討を進んで引き受け、文治元年(1185)10月9日、弟の三上弥六家季ら83騎で鎌倉を後にしたという。そして17日に、義経の京の館であった六条室町亭を襲撃した。

小町大路の脇にひっそりと建つ土佐坊昌俊の邸宅跡を示す碑。
小町大路の脇にひっそりと建つ土佐坊昌俊の邸宅跡を示す碑。

しかし自らが討って出た義経らに圧倒され、土佐坊らは敗退し鞍馬山に逃げ込んだ。だが義経の郎等に捕らえられ、六条河原で梟首されている。この襲撃をきっかけにして、義経は後白河法皇から頼朝追討の院宣を受け取り、すぐさま挙兵の準備にとりかかったのだ。本人がどう思っていたかは知るよしもないが、歴史を大きく動かす重要な役割を演じた人物が居を構えていたとされる場所は、今は静かな住宅地となっていて、遺構らしきものは何もない。訪れる人もほとんどいないようだ。

小町大路をそのまま南へ向かうと、日蓮上人が辻説法を行ったとされる地に出る。頼朝や義経が生きた時代とは異なるが、鎌倉時代を語るうえでは欠かせない人物のひとりなので、立ち寄ってみるのも悪くない。

日蓮上人辻説法跡の隣に新たに建設された日蓮堂。
日蓮上人辻説法跡の隣に新たに建設された日蓮堂。

建長5年(1253)、鎌倉の外れに当たる名越の松葉ヶ谷に草庵を構えた日蓮は、相次ぐ地震や暴風雨、干ばつ、さらには疫病に苦しむ人々に向け、辻に立って熱心に法華経の教えを説いた。その跡地とされる一画には、以前から石碑などが建てられていたが、そこに隣接する地に2021年、日蓮堂と名付けられた六角形の布教施設が建設され、今では新たなスポットとなっている。

腰越の地には義経の悲憤が今も漂う

小町大路の日蓮堂を後にしたら、再び鎌倉駅へと戻って江ノ電に乗車。腰越駅を目指した。義経と静の子が沈められたとされる由比ヶ浜に立ち寄りつつ、歩いて向かうこともできなくはない。だが今の季節、海水浴の人気スポットである湘南の強烈な日差しを全身に浴びて歩くのは、ちょっとキツいかも。

その点、腰越駅から満福寺の山門までは、ほんの3分ほどの距離。江ノ電の踏切を渡り、石段を登れば境内に出る。

江ノ電の駅のなかでも小ぶりな腰越駅。
江ノ電の駅のなかでも小ぶりな腰越駅。
駅から3分ほどで満福寺の入り口に到着する。
駅から3分ほどで満福寺の入り口に到着する。

鎌倉に残る義経の足跡で、もっとも印象的なのが腰越の満福寺であろう。兄源範頼とともに源義仲を討ち入洛し、すぐに摂津一ノ谷に転戦して平家の軍を破った。その後、後白河法皇から信任されたことで、許可を得ずに左衛門少尉、検非違使に任官され、頼朝からの怒りを買った。そして平家討伐の任を解かれてしまう。だが元暦2年(1185)に再び平家追討軍の将に起用され、2月に讃岐屋島、そして3月には長門壇ノ浦の戦いで大勝利を収め、ついに平家を壊滅させた。

平家が滅びると、頼朝と義経の間に生じた溝が深まっていった。そのような事をあまり気にしない義経は、壇ノ浦で捕えた平宗盛・清宗父子を護送して5月7日に京を立ち、鎌倉へ凱旋しようとした。しかし義経に対して疑念を抱いていた頼朝は、宗盛父子だけを鎌倉に入れ、義経は腰越に留め置かれた。このときに義経が逗留したのが、江ノ電腰越駅からすぐの場所に建つ満福寺である。

鎌倉入りを拒絶された義経は、何とか兄の怒りを解こうとして、ここで大江広元宛ての書状を認めた。それが世に言う「腰越状」である。

石段を登れば本堂の前に出る。
石段を登れば本堂の前に出る。
本堂前にある義経と、腰越状を認める弁慶主従の像。
本堂前にある義経と、腰越状を認める弁慶主従の像。

境内には「義経公慰霊碑」や「弁慶腰掛石」、腰越状を認める主従の像などがある。さらに本堂内では弁慶筆による腰越状の下書き、鎌倉彫の技法を取り入れた義経と静の別れの場を描いた襖絵などが見られる。

お土産として満福寺で売られている。200円。
お土産として満福寺で売られている。200円。
像の後ろには弁慶の腰掛石が置かれていた。
像の後ろには弁慶の腰掛石が置かれていた。

結局、頼朝には受け入れてもらえず、義経は再び京へ戻ってしまう。その後、最初に触れたように土佐坊昌俊による義経襲撃などが起こり、ふたりの亀裂は決定的となる。義経は頼朝討伐の院宣を受けるが、思うように兵を集めることができず、九州へ向かうため摂津から船出するも、暴風雨に遭い主従散り散りとなってしまう。結局、奥州の藤原秀衡の元に身を寄せることとなった。

だが秀衡が病没すると、頼朝による再三の義経追討令に抗えなかった藤原泰衡の軍に攻められ、文治5年(1189)閏4月、義経は衣川館にて自害して果てた。その首は酒に浸され、黒漆塗りの櫃に入れられ鎌倉に送られた。その首を検分したのも、満福寺だという説が残されている。

満福寺の石段のすぐ前を江ノ電が走り抜ける。
満福寺の石段のすぐ前を江ノ電が走り抜ける。

義経の首が辿った数奇な運命を伝える地

満福寺から海へと向かうと小動神社前に至る。頼朝が伊豆に配流されていた頃から仕えていた佐々木盛綱が、父祖の領国であった近江から八王子宮を勧請したのが始まりとされる神社だ。そこから江ノ島方面に向かえば、美しい浜越しに江ノ島が遠望できる。

夏の空がよく似合う素晴らしい風景だが、一説によれば首実検を終えた義経の首は、この浜に捨てられたとも言われているのだ。次はその首が流れ着いたとされる場所へと向かった。

幕末には海防を担う遠見番所が置かれた小動神社。
幕末には海防を担う遠見番所が置かれた小動神社。
義経の首はこの美しい浜に捨てられたという言い伝えもある。
義経の首はこの美しい浜に捨てられたという言い伝えもある。

まるで竜宮城のような形の駅舎が目をひく小田急線の片瀬江ノ島駅から藤沢行き普通列車に乗り、藤沢駅で乗り換えて隣の藤沢本町駅で下車。この駅から5分ほどの場所に、里人が潮にのって川を遡ってきた義経の首を拾い、洗い清めたと伝わる井戸がある。

駅から大通りに出て、白旗の交差点を江ノ島方面に向かえば、すぐに標識が目にとまるはず。交番とマンションに挟まれた小径の奥に、目指す井戸を発見。小さな公園の片隅にある井戸は、英雄の最期を伝えるにはあまりに寂しい佇まいであった。

国道467号線の歩道に建つ、首洗井戸の案内標識。
国道467号線の歩道に建つ、首洗井戸の案内標識。
マンションの間の小さな児童公園の隅にある首洗井戸。
マンションの間の小さな児童公園の隅にある首洗井戸。

この井戸から少し東に向かった場所にある荘厳寺には、義経の位牌が納められているようだが、だいぶ陽が傾いた時間になっていたので、参拝するだけにしておいた。荘厳寺は明治の神仏分離令以前は、200メートルほど北にある白旗神社の別当も務めていた。

鎌倉の白旗神社とは違い、こちらは義経が祭神として祀られているのだ。

神社に伝わる話によれば、腰越で和田義盛と梶原景時によって首実検された義経・弁慶の首は、その夜のうちにこの神社に飛んできたというのだ。それを聞いた頼朝は、白旗明神としてこの神社に祀るようにと命じた。そのため、後に白旗神社と呼ばれるようになったというのである。

義経の位牌が納められている荘厳寺。
義経の位牌が納められている荘厳寺。
義経と弁慶の首が飛んできたと伝わる白旗神社。
義経と弁慶の首が飛んできたと伝わる白旗神社。

境内には「源義経公鎮霊碑」や騎馬姿の義経に従う弁慶という構図の「源義経公武蔵坊弁慶公之像」などがある。その凛々しい姿には、誰でも多くの伝説に彩られた英雄の人気ぶりを、実感させられるであろう。

境内には義経・弁慶主従の絆が感じられる像も建つ。
境内には義経・弁慶主従の絆が感じられる像も建つ。
石段の左側に建つのが源義経公鎮霊碑。
石段の左側に建つのが源義経公鎮霊碑。

最後に、鎌倉ではないが義経がらみで訪れておきたいのが、頼朝と義経が初めて対面した黄瀬川の陣跡と伝わる地に残されている対面石だ。奥州にいた義経は治承4年(1180)、頼朝の挙兵を聞きつけると自身も参戦を決意し、10月の富士川の戦いおける頼朝の陣に駆けつけた。その際に兄弟が腰掛けた石だ。

そこは今では静岡県清水町の八幡神社の境内となっている。神社は旧東海道沿いにあり、三島駅から沼津駅へ向かうバスを「医療センター入口」で下車すればすぐ。歩いた場合、どちらの駅からでも40分程度だ。

旧東海道沿い、黄瀬川近くにある八幡神社。この付近に頼朝は陣を構えた。
旧東海道沿い、黄瀬川近くにある八幡神社。この付近に頼朝は陣を構えた。
境内に残されている兄弟が腰掛けた対面石。
境内に残されている兄弟が腰掛けた対面石。

次回は曽我兄弟、敵討ちの舞台を巡ります。

取材・文・撮影=野田伊豆守