まずは安達氏ゆかりの地に立つ博物館へ

今回の散歩のスタートは、鎌倉駅の西口から。こちら側には江ノ電の駅舎もあり、駅前ロータリーなどはこぢんまりとしてはいるが、なかなかしゃれた雰囲気が漂っている。まずは鎌倉市役所方面に向かい、市役所前交差点を右へと辿る。最初に『鎌倉歴史文化交流館』を目指したのだ。

江ノ電の駅舎がおしゃれな鎌倉駅西口。
江ノ電の駅舎がおしゃれな鎌倉駅西口。

この施設は鎌倉に多く残されている歴史的遺産と文化的遺産を学び、体験し、交流できる場として、平成29年(2017)5月15日に開館した。この場所はかつて無量寺谷(むりょうじがやつ)と呼ばれ、発掘調査によると近くには頼朝の側近・安達盛長の邸宅や、安達氏の菩提寺であった無量寿院という大寺院があったと考えられている。

『鎌倉歴史文化交流館』が立つ場所には安達氏の菩提寺・無量寿院や屋敷があった。発掘調査で池の跡が見つかった。
『鎌倉歴史文化交流館』が立つ場所には安達氏の菩提寺・無量寿院や屋敷があった。発掘調査で池の跡が見つかった。

この博物館のコンセプトは、原始から近現代まで連綿と続く鎌倉の歴史を紹介する通史展示と、地中から発掘された出土品を紹介する考古展示から成っている。北条氏に関する特別展も開かれるので、散策前に知識を仕入れておくのも悪くない。

さらに建物は、世界的に著名な建築家ノーマン・フェスター氏の設計事務所が手がけた個人住宅をリノベーションしたもの。建物を見るだけでも、十分に楽しめるだろう。

建物を見るだけでも価値がある『鎌倉歴史文化交流館』。
建物を見るだけでも価値がある『鎌倉歴史文化交流館』。

屈指のパワースポットを巡り運気をアップ

鎌倉歴史文化交流館から佐助隧道をくぐり閑静な住宅街を進むと、「佐助稲荷」や「銭洗弁天」へと続く道とぶつかる。まずは佐助稲荷へと向かった。住宅街の中を緩やかに登る道を辿ると、前方に佐助稲荷神社の石碑と赤い鳥居が見えてくる。

源頼朝は伊豆蛭ケ小島の配所で過ごしていた頃、日夜平家討伐を念じていた。すると老翁に姿を変えた稲荷の大神が夢に現れ、挙兵を促し、その時期を啓示したという。その言に従った頼朝は鎌倉で地盤を固めることに成功したため、稲荷神霊の加護に感謝。畠山重忠に命じて、佐介山隠れ里の霊地に社殿を建てさせたのである。

赤い鳥居が山の斜面に立ち並ぶ佐助稲荷。
赤い鳥居が山の斜面に立ち並ぶ佐助稲荷。

社殿に向かってゆるりと長い石段が続き、赤い鳥居もそれに沿って連なる。

石段を登りきると右手に手水社がある。まずは面の拝殿を参拝し、次いで左手の小径を辿り、拝殿後方の本殿へと向かう。途中には苔むした祠や灯籠、参道のそこかしこに陶器の小さな白狐が並べられている。これは参拝者が奉納したもので、ひとつひとつは愛らしいが、これだけの数が並ぶと何やら神秘的な力を感じてしまう。

実際、ここは鎌倉屈指のパワースポットとして知られている。

石段を登りきった場所に立つ拝殿。
石段を登りきった場所に立つ拝殿。
拝殿から本殿へと続く小径に並ぶ祠と陶器の白狐。
拝殿から本殿へと続く小径に並ぶ祠と陶器の白狐。

そして佐助稲荷からほど近い場所にある、もうひとつの人気パワースポットが銭洗弁財天宇賀福神社だ。

鎌倉を拠点とした頼朝は、ある日「仙境に湧く水で神仏を供養すれば天下は泰平に治まる」という夢告を受ける。霊水の湧く地を探し出し、お告げの主であった宇賀神を祀った。それが巳の年であった文治元年(1185)の巳の月、巳の日であったことから、毎月巳の日が縁日となっている。

銭洗弁財天宇賀福神社への入り口の洞窟。
銭洗弁財天宇賀福神社への入り口の洞窟。

入り口からして不思議な空気。佐助稲荷から源氏山公園方面に向かい、アキレス腱が伸ばされるような急坂を登ると、大きな岩肌に口が開いたような洞窟が見える。その前に鳥居が立っていなければ、神社の入り口だとは思わないだろう。

洞窟を抜けた先に並んだ白木の鳥居を振り返る。
洞窟を抜けた先に並んだ白木の鳥居を振り返る。

鳥居をくぐり、岩に穿たれた15mほどの暗い隧道(ずいどう)を抜ける。すると今度は白木の奉納鳥居がずらりと並んだ参道を通り、境内へと至る。周囲を崖に囲まれ、それだけで神秘的な雰囲気だ。

右側の社務所の左奥に本宮があり、その奥の洞窟が奥宮。
右側の社務所の左奥に本宮があり、その奥の洞窟が奥宮。

境内には平日にもかかわらず、大勢の人の姿があった。右手に社務所があり、その奥に本宮、さらに崖には洞窟があり、奥宮へと続く。

本宮を参拝した後、奥宮がある洞窟内へ足を踏み入れると、鎌倉五名水のひとつ「銭洗水」が湧き出していた。その前ではザルにお金を入れ、柄杓で洗い清める人の姿が絶えない。

巳の年であった正嘉元年(1257)鎌倉幕府第5代執権の北条時頼がこの霊水で銭とともに心身を清めたことをきっかけに「お金を洗い心身を清らかにすることで、福銭を呼ぶ」という信仰が広まったのである。

第5代執権の北条時頼がこの霊水で銭とともに心身を清め、一族の繁栄を願った。
第5代執権の北条時頼がこの霊水で銭とともに心身を清め、一族の繁栄を願った。

源氏ゆかりの山の頂には見所が満載

銭洗弁財天の背後の山は、源氏山と呼ばれている。標高は93mで現在では山頂一帯が公園だ。

その昔、麓に源氏が屋敷を構えていたことから、この名が付けられたと伝えられている。ほかにも永保3年(1083)に始まった後三年の役で、八幡太郎源義家が出陣する際、この山に白旗を立て戦勝を祈願したことから、旗立山という別名もある。

源氏山公園のシンボルとなっている甲冑姿の凛々しい頼朝公像。昭和55年(1980)頼朝の鎌倉入り800周年を記念し、山上広場に建てられた。
源氏山公園のシンボルとなっている甲冑姿の凛々しい頼朝公像。昭和55年(1980)頼朝の鎌倉入り800周年を記念し、山上広場に建てられた。
源氏山の山頂付近は、山の上とは思えないほど広々としている。
源氏山の山頂付近は、山の上とは思えないほど広々としている。

源氏山の北西一帯は、葛原岡とも呼ばれていた。

鎌倉時代の末の話にはなるが、この地で鎌倉幕府討幕の急先鋒であった日野俊基が処刑されたのだ。俊基は刑部卿・日野種範の子で、文保2年(1318)に即位した後醍醐天皇の親政に参加。諸国を巡って反幕府勢力を募った。しかし正中元年(1324)、後醍醐天皇による討幕計画が発覚したため、捕らえられてしまうが一度目は許された。だが元弘元年(1331)に起きた2度目の討幕運動、元弘の乱で再び捕らえられると、鎌倉に送られ処刑されたのである。

明治維新後に南朝が正統とされると、俊基は功労者として再評価された。明治20年(1887)には葛原岡に隣接する梶原の地に、俊基を主祭神とする葛原岡神社が創建された。

明治になり日野俊基を主祭神として創建された葛原岡神社。源氏山には日野俊基の墓もある。
明治になり日野俊基を主祭神として創建された葛原岡神社。源氏山には日野俊基の墓もある。

今も急峻な坂が残されている化粧坂

有事の際、坂東武者が鎌倉へ馳せ参じた道は、後に「鎌倉街道」と呼ばれるようになった。これら鎌倉街道は、奈良の大和盆地の幹線道路「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」にならい「上ノ道」「中ノ道」「下ノ道」とされた。上ノ道は上野や武蔵の国府と結ばれていた。中ノ道は奥州道中で、頼朝が奥州藤原氏を討伐した際に築かれた。下ノ道は常陸、下総へと続く道である。

頼朝像が立つ山上広場の北西には、上ノ道の出口に当たる「化粧坂」が残る。「鎌倉七口」のひとつに数えられる切通しで、わずかではあるが、当時を偲ばせる急な山道が一気に高度を下げ、住宅街に続く。道はさらに海蔵寺や英勝寺、浄光明寺がある扇ガ谷へと続いている。

源氏山の山上広場脇から少しの間は、鎌倉時代の風景を彷彿させる化粧坂。
源氏山の山上広場脇から少しの間は、鎌倉時代の風景を彷彿させる化粧坂。

元弘3年(1333)、鎌倉に攻め入った新田義貞の軍勢は、化粧坂付近で北条軍と激しく交戦。軍記書『梅松論』では化粧坂は葛原と記されているが、新田軍は攻め上がれず稲村ケ崎へと迂回したとある。このように防御施設でもある切通しの機能を果たしたのである。

化粧坂は5分ほどで住宅街の端に到達する。
化粧坂は5分ほどで住宅街の端に到達する。

締めくくりは北条政子・源実朝の墓をお参り

化粧坂を下りた場所には、頼朝を仇敵としてつけ狙った平家方の武将、平(藤原)景清が幽閉されたと伝わる土牢跡があった。そして今回の鎌倉散歩の締めくくりとして、鎌倉五山第三位で開基は北条政子、開山は栄西という寿福寺に向かった。

その前に、せっかくだから近くの海蔵寺にも立ち寄ることに。

境内の七堂伽藍や薬師如来像なども見応えがあるが、南の隅の岩窟内にある鎌倉時代の井戸「十六井戸」は、何とも言えない神秘的な雰囲気に包まれている必見ポイントだ。

四季折々、美しい景色を醸し出す海蔵寺。
四季折々、美しい景色を醸し出す海蔵寺。
岩窟内に霊験あらたかな功徳水が湧く十六井戸。
岩窟内に霊験あらたかな功徳水が湧く十六井戸。

そしてしばらく行くと、寿福寺の山門が現れる。この寺は中門までは自由に出入りできるが、その先の境内は一般公開されていない。ただ北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある墓地は訪れることができる。

中門の前から左側に回り込み、道なりに登っていけば墓地の入り口がでてくる。そこを一番上まで登ったら、山の斜面に沿って右へと進むと、やぐら(横穴墓地)がいくつか見えてくる。北条政子と源実朝の墓には小さな看板があるので見落とさないように。

鎌倉五山第三位の寿福寺。山門から中門までは拝観可。
鎌倉五山第三位の寿福寺。山門から中門までは拝観可。
墓地の一番端の崖には、やぐら(横穴墳墓)が穿たれている。
墓地の一番端の崖には、やぐら(横穴墳墓)が穿たれている。
源実朝のものと伝わる墓。
源実朝のものと伝わる墓。
北条政子のものと伝わる墓。
北条政子のものと伝わる墓。

再び横須賀線沿いの道に戻り、駅方面に歩いて行くと、さまざまな店が軒を連ね、多くの人が行き交うようになる。ここまで戻ってきて気づいたのが、今回は意外にアップダウンが多く、けっこう足が堪(こた)えたこと。逆に言えば、実に鎌倉らしい所を訪ねたと実感できた。

 

次回は源平合戦前半のハイライトとなった、伊豆の戦場を訪ねてみたい。

取材・文・撮影=野田伊豆守