大手飲食企業の総料理長を辞して、個人店でかなえた理想のメニュー
入り口を入ると券売機があって、メニューはバラエティが豊富だ。汁なし麻婆麺、担々麵、鶏塩そば、担々麻婆麺のほか、麺の店ながら海南チキンライスに、名物しびれ鶏など。
どれも気になる! と券売機の前でしばらく考えていると「常連客からは“シンフウ名物!わかりづらい券売機” って言われてます」とオーナーの菊地透さんが声をかけてくれた。「おすすめを聞かれたら、担々麺と答えています」という。では、担々麺をいただこう。
『シンフウ』がオープンしたのは2018年3月。シンフウは漢字なら「幸福」と書く。中華の調理人として働きながら中国語の勉強もした菊地さんが、店に来るお客さんも店もみんなが幸せな気持ちになって、幸せが循環するようにという願いを込めた。
菊地さんは店を開く前、ある飲食店企業の取締役・総料理長として経営陣に名を連ねていた。複数の店舗を抱え、デパ地下で中華総菜の販売も手がける「そこそこ大きな会社」だそう。経営陣として会社を引っ張る役割を担いつつも、ジレンマもあった。大きな組織の中では、自分が出したい味が出せるとは限らないからだ。
独立して個人店の店主となったのは「体が動くうちに、目が届く範囲で妥協しない店をやってみたい」と考えたのが大きな理由だとのこと。
ゴマは焙煎から、2色の花椒は店で挽いてブレンド。細かな手作業の積み重ねが作る美味しく美しい一杯
その言葉通り、『シンフウ』では勉強熱心な菊地さんがこれまで培ってきた知識と技術を盛り込んで、理想のメニュー作りをしている。清湯スープは丸鶏を煮込んで取る。担々麺用のごまだれは、えぐみが出ないように生のむきごまを店で焙煎。ラー油も手作りで焦がし麻辣油と辣油の2種類を作っているし、決め手のひとつ花山椒は店で最高級品の漢源の赤い実と緑の実を粉にしてブレンドしているという。もちろん化学調味料は使用しない。
スープはブレンダーで泡立てて、カプチーノ仕立てにしている。このひと手間で一段とクリーミーに仕上がる。トッピングのほうれん草と紅芯大根は千葉の契約農家から取り寄せた無農薬の有機野菜。そして仕上げには油で揚げた麺をこんもりと盛り付けている。揚げ麺は、揚げることで食感がよくなるちょうどいい太さを研究した。繊細な美しさをもつ一皿を前に、早く食べたい気持ちと、崩してしまうのがもったいないような気持ちが……。
まずは泡立ったスープをと、レンゲですくうと、ラー油やたっぷりのひき肉、干しエビ、ザーサイ炒めが一緒になって、一層複雑な味に。スープの絡んだモチモチ麺とパリパリした揚げ麺が絡まって両方の食感が口の中に存在するおもしろさもクセになる。冬はもちろんあたたまるし、夏に食べてもたまらないだろう。今回は基準の辛さとシビれのレベルで作ってもらったが、辛くてシビれる味が好きな人はレベルを上げてもらうこともできる。
メニューが多い分、仕込みにはずいぶん時間をかけている。「妥協しようと思えばできるし、原価を下げることだってできるんですけど、それをやったらここで店を構えた意味がないと思うんですよ。おいしいですから食べてくださいと、自信を持ってお客さんに出したいので、葛藤しながらやってます」
「ツェッペリン・ラーメン」と呼ぶ常連客も。BGMは1日中レッド・ツェッペリン!
丁寧に作られる料理の数々以外にも『シンフウ』にはひとつ大きな特徴がある。それは、BGMが一日中、レッド・ツェッペリンということ! 菊地さんは昔からレッド・ツェッペリンのファンで、せっかくの自分の店では、好きな音楽をかけてやろうと考えた。
おかげでレッド・ツェッペリンのファンからも親しまれているし、そばにあるライブハウス稲生座の関係者や出演者もよく食べにくる。『シンフウ』のことを「ツェッペリン・ラーメン」と呼ぶ人もいるそうだ。
高円寺らしく、常連客には古着屋さんや居酒屋店主など近隣の個人店経営者も多い。たくさんあるメニューも、どれも気に入ってくれている常連客がいる。「一度メニューの整理をしようかとも思いますが、これはあのお客さんとあのお客さんがいつも頼んでくれるからと思ってしまってできない」という。菊地さんが作りたかった隅々まで目が届く店が実現している証拠だろう。
ラーメン激戦区のひとつ高円寺で、丁寧に作られた麺料理が味わえる『シンフウ』。手作りで追求したその味をぜひ体験してみてほしい。
取材・撮影・文=野崎さおり