元洲堡塁砲台から陸軍第一研究所富津試験場へ
富津岬の延長上には第一海堡があって、岬そのものが陸軍施設となっていました。現在の富津岬は「富津公園」となって市民の憩いの場になっており、松の木などが茂る清々しい場所ですが、陸軍の時代は低木が散見されるくらいの砂州でした。その姿は国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」を用いて、1946年米軍撮影航空写真を閲覧すると分かります。
富津試験場でテストされたのは、近距離射撃兵器だけではありません。大正13年(1924)、最寄りとなる内房線青堀駅から試験場まで陸軍引込線が建設され、射場内の要所に線路が延びます。この線路を伝って運び込まれたのは、試製四十一糎榴弾砲とフランスのシュナイダー社製二十四糎列車加農砲(列車砲)でした。双方とも射程距離が5万メートルあり、他の射場よりも輸送や射弾観測がしやすい富津試験場が最適地でした。巨大な砲の実験場でもあったのです。
富津岬を歩きながら富津試験場跡の監視所を探す
富津公園には岬の突端へ伸びる道路があり、散歩する人、走り込みをするランナーとすれ違います。向かう先は海岸にある監視所。道路から北側の海岸へ伸びる小道へ分け入ります。少々荒れ気味の小道を歩きながら「この道でいいのかしら?」と疑問に思いつつも、やがて盛土みたいな場所へ出て、朽ちたベンチがありました。海岸も見えます。この先に監視所の遺構があるはず。
と、前方から人影が近づいてきました。白人の老夫婦と思しき二人連れが金属探知機状の機械を持ち、ニコッと会釈してすれ違います。あの人たちも遺構探しなのかなぁと呑気なことを思いつつ、金属探知機っぽいのが気になりました。
まぁ、廃墟や戦跡には色んな人が(見えない人も含めて)集まるので……。私はたまにこういう不思議な遭遇があります(笑)。例えば、廃線跡で犬の集団に囲まれたり、ばったり出会った妙齢のおじさんに「俺は幾つに見えるか?」とクイズを出されたり。あるいは大型フィルムカメラで撮影中、誰もいないけれども集団が背後から見つめる気配を感じたり、いきなり腐敗臭がしたり……。廃墟はいろいろなものが集まってくるので、皆さんもお気をつけください。
さて、目指す監視所は松林の先にありました。おお!コンクリートの筒! 細長い監視窓があって、戦跡遺構と知らなければ何かのキャラクターオブジェかと思ってしまうほど、どこか間抜けているというか、モブキャラの掃除ロボットのような……。
監視する目的のために造られたものなのに、ちょっとおかしく見えてしまうのは、のっぺらなコンクリート円錐構造物に監視窓が開くという、シンプルで全く無駄のないデザインだからかもしれません。戦跡遺構に愛らしいという言葉は適切ではないのですが、怖さよりもどこかキャラクター的に見えます。
この監視所は海岸線の内側にポツンと佇んでいました。東京の高層ビル群を遠望できる千葉県の浜に、こうして80年余りも遺構が残っているのは不思議な気持ちです。
気になったのは監視窓が海側ではなく、岬の内側と第一海堡へ向いていることです。海側は出入り口でした。海を監視するものではなかったのか? この監視所の役目は、射撃試験時の危険防止を目的とするものだったとのことです。
「つい先日までここへ来る道は草ボウボウで立ち入りが難しかったんです。いま草刈りして整備しているのです」
監視所の傍らで作業していた男性に挨拶すると公園管理の職員さんで、そう言いながら草刈り作業をしています。近年、公園側で遺構の説明板と場所を整備したようで、こうして小道の整備もされていました。そのおかげで気軽に遺構を見学でき、うれしい限りです。
ここであらためて米軍撮影の航空写真を見てみます。終戦時の監視所は海岸線ギリギリにあり、線路のような道が続いてあって、途中で分岐しています。分岐の緩やかさから察するに、おそらく引込線でしょう。監視所の脇には被弾塀があったようで、海岸に迫り出す形で土台があります。
土台は現在でも確認でき、海岸へ降りる際にコンクリートの構造物が足元にありました。線路の跡は判別できにくいですが、先ほど歩いてきた盛土部分がそれっぽいです。なお引込線のあった大部分は、富津公園ジャンボプールや駐車場となっています。
実は監視所のすぐ近くに監的所(警戒哨)があります。先の航空写真の分岐部分に、ポツンと丸い構造物が確認でき、それが対象のものです。しかしここは低木が生い茂っており、容易に近づくことができません。盛土の段差があって危険のため、近づかない方が無難です。
と、ここまで書いてボリュームが増えてしまいました。遺構散策はまだまだ続きます。次の号はボウズと呼ばれている監的所です。旧ザクに見えてしまう遺構を紹介します!
取材・文・撮影=吉永陽一