『紺碧の空』(1931年)の作曲料はペナントだった
早稲田大学の大隈講堂付近に『紺碧の空』の歌碑がある。入学式や卒業式、早慶戦の神宮球場では必ず唄われる応援歌だ。在学中はおそらく、ヒットチャートのベスト10よりも唄う機会が多い。学生やOBはこの曲の前奏が流れると、脊髄反射して周りにいる連中と肩組み絶唱するという。
『紺碧の空』は1931年に曲が完成し、早稲田大学第六応援歌(現在は第一応援歌)に制定された。当時、六大学リーグで早稲田は慶応に負けつづけていた。選手の士気を鼓舞するために、慶応の『若き血』に対抗する応援歌を作ろうと応援団が動く。新応援歌の歌詞を在学生から公募し、高等師範部3年生の角治男の詞が採用された。そして作曲を依頼されたのが、当時は鳴かず飛ばずで燻(くすぶ)っていた新人作曲家の古関裕而。2021年上半期のNHK朝ドラ『エール』でも、そのシーンが描かれている。
ちなみに、小関が早大応援団から受け取った作曲料は現金ではなく、「WASEDA」と書かれたペナントの現物支給だった。原価は2円50銭。大卒初任給が70〜80円といわれた頃。2円50銭は、いまの金銭感覚だと1万円くらいか。現代にまで歌い継がれる名曲の報酬としては安すぎる。
大隈講堂は昭和2年(1927)2月に竣工していた。『紺碧の空』が唄われるようになった頃は、正門前に聳える時計台が大学のシンボルとして定着していたはず。また、昭和10年代には「自由な大学」をめざす方針から正門の門柱や塀が撤去される。
門や塀がなくなったことで、時計台の下は開放的な雰囲気があふれる。早慶戦などのスポーツイベントがおこなわれる都度、角帽を被り腰に手ぬぐいぶら下げた学生たちがここに集まり気勢をあげた。
この頃の早慶戦は、日本で最も人気のあるスポーツイベントだった。バンカラで野暮ったい校風。地方出身の貧乏学生が多い早稲田に対して、慶応は富裕層のシティーボーイといったイメージ。お互いキャラが立った両雄の対決に日本中が注目する。
それだけに学生たちの応援も熱が入った。時計台を背景に肩組みながら『紺碧の空』を熱唱したことだろう。
現在も早稲田大学正門には、学内と外界を隔てる門柱がない。そのせいか学生以外の一般人も気軽に入れる雰囲気があり、散策する熟年世代の姿もよく見かける。
正門前は昭和時代頃まで石段だったが、いまはなだらかなスロープに。校舎群も2000年代に入ると建て替えが進められ、大半は近代的な高層ビルになっている。が、各館の低層部分は旧館の外観を忠実に再現。また、早稲田キャンパスの中心にある大隈重信銅像は『紺碧の空』が完成した翌年、昭和7年(1932)に建立されたものだ。頭上に聳える建物の高層部分を目に入れなければ、この歌が生まれた当時のキャンパス風景をイメージすることができる。
大学の北門を出ると、道を挟んで大学中央図書館がある。ここは昭和62年(1987)まで安倍球場(戦前の名称は戸塚球場)があった場所。規模こそ小さかったが、昭和8年(1933)に日本初のナイター設備を導入した本格的球場だった。ここで昭和18年(1943)10月16日には、早慶戦もおこなわれている。学徒出陣の壮行を兼ねたこの試合は「最後の早慶戦」として映画の題材になった。
最後の早慶戦は10対0で早稲田の圧勝。土手の傾斜を利用した草が茂る観客席では、得点が入る都度に学生たちが肩を組み『紺碧の空』を唄う。この歌が聴かれたのも、戦前ではこの時が最後だった。
『神田川』(1973年)の世界は今や時代劇か?
早稲田から高田馬場方面へ向かって歩く。正門からつづく早稲田新道、現在は早大通りと呼ばれる界隈が戦前は学生街の中心だった。田んぼの中に開通した新道に沿って、大正期頃から学生相手の飯屋や喫茶店が建つようになり、昭和時代には大勢の学生でにぎわっていたという。
しかし、空襲によって戦前の学生街は壊滅。戦後その中心は鉄道駅に近い西早稲田や高田馬場に移っている。昭和30年代になると早稲田は総合大学をめざして規模を拡張、近隣の戸山や大久保にもキャンパスが設置されて学生数は急増した。それにあわせてこの付近も「日本最大の学生街」と呼ばれるほどに発展している。
戦後になってからも早稲田大学には「バンカラ」「貧乏学生」といったイメージが色濃かった。慶応と同じ最難関の私学ではあるが、早稲田は地方出身学生の比率が高い。80年代まで在学生の半数近くが関東地方以外の出身者だった。
いまも早稲田通りは学生であふれ、道沿いには学生相手の店々が軒をつらねる。学生街は健在なのだが、しかし、その眺めは昭和時代と比べるとかなり変化している。今年の入試情報を見ると、早稲田大学の志願者・合格者数の約77%が関東圏の出身者で占められる。自宅から通学する学生が増えて、学生気質も変わったという。学生たちの趣味趣向やフトコロ事情が変われば、学生街もそれにあわせて変貌する。それは当然か。
かつて早稲田通りで最も多く目にしたのが古本屋だった。通りに何軒もの古書店が並び、本を積みあげたワゴンが歩道にもあふれていた。また、古書店の間に挟まって点在する喫茶店はどこも、ひと癖ありそうな店主がいて独特の雰囲気を漂わせている。一見客には入りづらい。
他にも雀荘や質屋など、昭和時代の学生街ではよく見かけたものだが……また、見かけなくなったといえば、四畳半や三畳の風呂無しのアパート。地方出身の学生の減少、都心の地価高騰などが影響しているのだろう。昔はこの界隈の不動産屋の店先で、「家賃8000円」と書かれた安アパートをいくつも目にした。裏路地に入れば木造モルタル造りの安普請なアパートが何軒もあった。
最近のコロナ過で学生の生活苦がよく話題になるけど、昭和の学生たちの暮らしはもっと貧しい。そういえば『神田川』で唄われた「三畳一間の小さな下宿」も、この近くにあったはず。昭和48年(1973)に発売された『神田川』のシングルレコードは、160万枚のセールスを記録する大ヒットとなった。翌年には同名の映画も公開されている。
歌詞は作詞家・喜多條忠氏の実体験に基づいたものだという。10数年前、新聞のインタビューで本人がそれについて語っている。
喜多條氏は早稲田大学在学中の19歳の時、同級生の女性が住む下宿に転がり込んで1年ほど同棲した。その下宿は早稲田通りと明治通りが交差する付近にあった。窓から神田川や大正製薬の煙突が見えたとか。神田川に架かる戸田平橋を渡ってすぐの場所だとの情報もある。歌詞にでてくる「横町の風呂屋」は、西早稲田にある「安兵衛湯」という名の銭湯だという。
『神田川』のレコードが発売された当時、喜多條氏は25歳。そこから計算すると、三畳間の安アパートで同棲していたのは1967〜1968年頃だろうか。当時は「公害」という言葉が流行語にもなり、環境汚染が深刻な頃だ。神田川も大量のゴミや廃液が投棄される悪臭漂うドブ川だった。
そんな場所だけに、貧乏学生向けの安下宿が多かったのだろう。しかし、ドブ川沿いの三畳風呂無しアパートは、セキュリティーにも問題が多々ありそう。そこに若い女性が住んでいたことに驚いてしまう。けど、それが普通の時代だった……。
この川が「神田川」の名称に統一されたのは1970年と、意外に新しい。昔は上流域を神田上水、下流は江戸川などと呼んでいた。
現在の戸田平橋近辺を歩いてみる。木造の安アパートなど、どこにも見あたらない。川沿いは鉄筋の建物ばかり。コロナ過でアルバイトを失い困窮している学生が増えたと、テレビや新聞でさかんに報道されているけれど。貧乏学生の最低限の生活でも、現在はトイレ・シャワーやエアコン完備のワンルームマンションだ。
もっとも、経済的事情から三畳一間の安下宿に住みたいと願っても無理なこと。いまは都心部でそれを探すのは至難の業。銭湯もない。『神田川』で唄われた安兵衛湯は、90年代初頭に廃業してマンションに建て替えられている。
現在の都会では、ワンルームマンションの家賃が払えなければ、ホームレスになるしかない。貧乏学生が分相応な暮らしができた昭和時代とは違う。金が無ければ住むのが難しい場所になった。
なぜこの曲の歌碑が、中野区の末広橋近くにあるのか?
ところで戸田平橋から神田川を3キロほど遡った、JR東中野駅からほど近い末広橋の袂の小さな公園に『神田川』の歌碑が設置してある。中野区のホームページによれば、区の魅力をPRする観光資源として平成26年2月に公式認定されたものだというのだが。早稲田ではなくここに歌碑が置かれた理由は、よくわからない。
確かに歌碑のすぐ近くには神田川がある。護岸はコンクリートで固められ、建物が密集する風景は、早稲田界隈で眺める川岸の風景と似た感じ。どこで眺めても神田川は神田川。風景は代わり映えしない。
それなら歌碑も、川沿いであればどこでもいいのだろう。たぶん。
いや、西早稲田や高田馬場では見かけないものがある……歌碑の対岸に、木造モルタルの建物が数軒。アパートだろうか? 神田川沿いに立つ安アパート、そこだけは歌詞の世界を想像させる眺めだ。この眺めがあったがゆえ、ここに歌碑を建立した。と、それは考え過ぎだろうか。文化財級の価値のない古ぼけた木造建築は、いつ取り壊されるかわかったものではない。明日には消える眺めなのかもしれないのだから。
困窮する貧乏学生の話は、いまの時代もよく聞く。が、「三畳一間」や「横町の風呂屋」は、いずれ書物の中にしかない歴史になってしまう。そんな時代になりつつある。
取材・文・撮影=青山 誠