柳家小三治 やなぎやこさんじ

昭和14年(1939)、東京・淀橋区(現新宿区)生まれ。1959年、五代目柳家小さんに入門、69年、17人抜きの抜擢で真打昇進、十代目柳家小三治を襲名。2010年、落語協会会長就任、14年会長を退き、協会顧問に就任。同年、重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。

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そうかそうか。おれは東京の子だった

生まれは新宿の柏木、淀橋区柏木(*1)3丁目です。5人兄弟で男はわたしひとり。戦争中に死なせちゃいけないっていうんで、宮城県の岩沼(*2)ってところの親類に預けられてましてね。わたしは岩沼の子になりました。

産みの母親が東京から岩沼まで私を連れてきて、駅まで帰りの切符を買って来ると言って、そのまま帰らなかった。もうただただ悲しくてね。その家にあった柿の木に登って西の空を向いて、おいおい泣いてたんです。その日のことを、もう映画の1シーンのように覚えてますよ。

でも岩沼は、とってもいい、天国みたいなとこだった。伯父さん伯母さんがとっても優しい人でね。道を歩けばぴょんぴょんカエルが跳んでくるし、イナゴは飛んでるしね、夜に表出ればゲロゲロってカエルが鳴いてて、月はきれいだし。遠くのほうから汽笛の音が聞こえるしね。わたしは東京生まれで東京育ちですけど、あそこがほんとの自分のふるさとだと、感覚的にはそう思ってます、今でもね。

岩沼の兄弟は全部男で、わたしより5つ上の姉さんがひとり。その姉さんが私を説得にかかるんですよ。お前はもともとは岩沼の子なんだと。東京の家の兄弟は女ばっかりだから、お前をやったんだって。あぁそういうもんかなってね、馬鹿正直ですから、俺はこのうちの子なんだ、東北弁の子なんだっていうことを体に一生懸命たたき込んで、3日4日するうちにはペラペラの東北弁になってました。

ある日突然、上の上の兄貴に床屋に連れて行かれて、それまで床屋なんか行った憶えもないのにね、帰ってきたら、変なおばさんがニコニコ笑ってこっち見てる。で、その兄貴にね、「あいつだん(誰)だ?」って聞いたら、「おまえのがが(母親)だ」って言われてわかりましたよ。そうかそうか。おれはここの子じゃなくて東京の子だったんだって。

*1 淀橋区柏木……JR大久保駅と東中野駅の間、現在の新宿区北新宿を中心とするエリア。小三治さんが通った淀橋第四小学校は健在で、平将門に由来する鎧神社も隣接。

*2 宮城県の岩沼……宮城県南部の阿武隈川の河口に広がる一帯。

戦後の焼け跡から東京暮らしがスタート

戦争が終わって柏木に連れ戻されてからは、毎日ただただ岩沼を偲んで、いっつもそっちの空を睨んで涙ぐんでた陰気な少年でしたね。こっから道をまっすぐ行くと新宿で、伊勢丹を曲がって明治通りを真っ直ぐ行くと池袋で、いつか岩沼に行きあたるって毎日想像してね。うちにあった足踏みミシンを踏むと、ガチャコンガチャコンって回る。それが汽車の轍のような感覚で、「次は宇都宮~」とか言って。そのうち途中の駅も覚えてしまい、案外細かい駅まで知ってましたよ。

帰ってきた頃の柏木はね、戦争が終わって1、2年、家の周りもどこも焼け跡ばっかりですよ。自分の家も焼けてありませんでした。焼け跡から拾ってきたトタン板を屋根にしたり立て掛けたりして、狭いところに一家7人がやっとのことで寝てました。うちから東を向けば、伊勢丹の建物と二幸っていうビルだけポツンポツンとあって、その間に山手線と中央線の交差のとこが、低い屏風のように遮ってる。西見ると全く何もなくて、ただの焼け跡。夕方には真っ赤な富士山が、「俺だ」っていう顔で堂々と見えました。富士山にずいぶん慰められましたね。

最初は地元の淀橋第四小学校っていう、鎧神社の隣の小学校。あの、なんていうんでしょうかねぇ、フフフ、問題児だったんでね。知恵働かせて、いかに学校行かずに学校行ったふうに装うか考えてて。2年か3年生の時に、明治神宮まで歩く遠足があって。うちのそばをかすめて行くっていうんで、じゃぁ学校行くことねえだろうって、みんなが通りそうな角で待ってたんだけど、待てど暮らせど通らない。学校じゃぁわたしを待ったらしいんですよ。で、もう行きましょうって出発した。わたしのほうはっていうと、じゃあ明治神宮歩いて行こうって、ひとりで歩いて。明治神宮の入り口のところで待ってると同級生の声がワイワイしてきて、「よう!」って言ったら「よう! じゃありません!」って担任の先生に怒られてね。まあ、そういう手に追えない奴だったんですよ。で、小学5年の時から四谷の小学校にね。中学も四谷で、電車に乗って通いました。

われわれは頭が悪いってのを自慢にしてました

それで(都立)青山高校(*3)に行くんです。自分ん家が大久保駅だったもんだから、千駄ケ谷か信濃町で降りる。信濃町のが多かったかな? 千駄ケ谷で降りると、競技場(*3)の横を通って行きました。信濃町なら外苑の中の木立の間を抜けてくるっていう。ほら、俺がほんとに青高出たらしいってことがわかってきたでしょ?

青高は旧近衛歩兵第4連隊の兵舎を校舎に使ってました。3階建てでね、屋上へ上がると屋根がトーチみたいになってて、あれなんていうんだ? 高射砲じゃないけど、対空砲とか、そういうのが撃てるような斜めの屋根になってて、さあどっからでも撃って来い! みたいなね。古い建物だったから、床からはネズミがちょろちょろ出てくるしね、廊下をネズミと生徒が交差してるような。卒業した次の年に新しい校舎ができたんです。

あんまり勉強の記憶がないんですよ。頭もよくなかったしね。面白いことはやりましたよ。今は優秀な学校になりましたけど、われわれは頭が悪いっていうのを自慢にしてました。噺家になろうって思ったのは高校3年の頃。落語研究会(*5)には入ってたけど、1年2年の時は噺家になろうなんて頭はなかったですよ。それより新劇とか、演劇とかそっちに行こうと思ってましたからねぇ。小学校や中学校でも演劇みたいなことはやらされてて、嫌いじゃなかったんです。

その頃は赤坂公会堂(*6)って言ったかな? 一日借り切って、青高の文化祭(*7)があったんです。クラスの連中をけしかけて打倒演劇部ってね、演劇で参加しようって。一幕ものしかできないから、そういう条件のなかから出し物を考えたわけですよね。自分で演出と主役をやってね、高1ん時は八木隆一郎の原作の『湖の娘』、2年の時は秋田雨雀の『国境の夜』。それはすごく面白かったんです。3年の時は大学受験だし、落語研究会の頭にいましたから、落語やんなきゃまずいんじゃないかって、きっと落語やったんじゃないですかね。そっちは忘れました(笑)。

1年の時、昼飯時になると、郡山に早いとこ昼飯食わせて教壇で何かやらせようってことになったんです。そしたら、今年から落語研究会ってのができたから入らないかって。もともと演劇の頭がありましたから、落語っていうのはひとりでやって、右左向くたんびに役柄が変わるんだって、その時にわかりました。

落語研究会に入って、私たちが落語研究会をやってる間にご縁があって来てくれたのは、三遊亭圓生なんていう大物とか。三笑亭可楽とか、あと、ほかにも来てもらった人もいたかもしれません。研究会の先輩なんかに連れられて寄席にも行きました。学校から近いから、ほとんど新宿の末廣亭でしたね。

さて、学校行って、えばってみる?

 

*3 都立青山高校……小三治さんが通っていた校舎は赤坂区青山北町四丁目にあった旧東部第七部隊の兵舎を利用していた。現在の校舎は1999年落成。
*4 競技場……第二次大戦中、学徒出陣の壮行会が行われた明治神宮外苑競技場。小三治さんの在学中はアジア大会と国体開催に向けての新競技場工事期間で、1958年3月に完成。これが前回の東京オリンピックに使われた国立競技場だ。
*5 落語研究会……小三治さんは、高校3年の時には、ラジオ東京の『しろうと寄席』で、15週連続で勝ち抜くという実力の持ち主だった。
*6 赤坂公会堂……現在の赤坂区民センター。
*7 青高の文化祭……現在は「外苑祭」として全学年・全クラスの生徒が教室で演劇やミュージカルの公演を行うことで知られているが、小三治さんの在学当時から、その萌芽が見られるのが興味深い。

青高野球部員との交流と持っていない卒業写真

集まってくれた野球部員に「俺にも青高2年っていう時があったんだよ」。

野球部、集まってもらって悪いねぇ、みんな青高なんだろ? 2年生かぁ、俺も青高2年っていう時があったんだよ。卒業して3年目ぐらいの頃かな。もう二ツ目になってた頃かな? 高校野球の予選で、青高と早稲田実業が神宮で対戦したことがあるんだよ。野球少年ですから行きました。そん時ピッチャーにいいのがいてね、4回くらいまで相手を0点で押さえてたんです。強いじゃないかってんで、こっちも熱が入りましたよ。だけど5、6、7回でね、ボコボコ打たれてもう点数数えられなくなっちゃった(笑)。

野球部のみんな、頑張ってね。見てる人が必ずいるんだから。目立たない奴のほうが野球は大事だから。俺ね、野球部にいたことあるの。3年の時、野球部の部長が俺の隣の席に座ってて、屋上で素振りやる時にね、お前は落語研究会なんだから「イチニ、イチニ」って、素振りの号令をやりにきてくれって。だから俺は野球部だったんだ(笑)。間違いなく青高の一員だった。

在籍当時の野球部には専用のグラウンドがなかったという。「自分の学校じゃないみたいだ」。
「真ん中でいいの? 監督みたい……いいですねぇ」。日焼けした顔と泥だらけのユニフォームに囲まれて、小三治さんの青高時代が蘇る。

数学の先生でひとり面白い人がいてね、授業中に時計見ながら、あと10分で終わりますけど、じゃああと10分はちょっと郡山君こっちきて、落語やってって。その先生のおかげで落語家になっちゃった。そういう学校だったですね。ガチガチの学校じゃなかったんです、自由でしたね。

卒業写真持ってないんだよ。昭和33年、卒業式の日ね、学芸大の受験の日だったの。担任はね、なっぱ。理由は知らないけど、なっぱっていうあだ名の先生。(写真を見て)あっ、なっぱいた! あ、木村だ、桐生だ。そうだ、このクラスだ。でも俺がいないね。落第したのかな(笑)。青高は、だらけてるところが好きでしたね。しっかりした奴なんかひとりもいなかった。

「学芸大の受験の日だったから卒業式は出てないの」と「俺のカメラ(スマホ)」で撮影。
卒業写真を見て「なっぱ(担任教師のあだ名)はいたけど、俺は……。落第したのかな?」。

数十年前の記憶は昨日のことのように

♪ティ~リリリリリン タ~ララララララ タ~ラランランタラララ ランタンタン(突然「わらの中の七面鳥」を口ずさむ)。どうしてこのメロディーが頭に浮かんだのかってね、屋上でフォークダンスやってたの。♪タラッタタッタ タラッタタ~。それが唯一、女の子の手を握れる。でも女の子の中にはね、せっかく手握ってるのにハンカチを持ってね。失礼な女だねえ。この女に呪いあれ、って思ったね(笑)。

いやあもう、何十年も忘れてたことをね、よくまぁ思い出させてもらいましたよ。覚えてるもんですね。最近のことはからっきし覚えてませんけど、昔のことの方が覚えてます。景色もちゃんと出てきますよ。ありがとう! なんだか夢のような学校だねえ……。

元兵舎だった校舎は小三治さんが卒業した翌年に建て替えられた。

取材・構成=高野ひろし 撮影=阿部 了
『散歩の達人』2019年9月号より