この信号機跡の石垣は、開業時の海側石垣と構造の連続性が認められたため、開業当初からあったと考えられています。調査の過程で、周囲の石垣とは異なり、信号台の目地にはモルタルのようなもので補修した痕跡が見られました。発掘された状態は周囲の築堤の高さと変わらないですが、信号機跡の石垣の根元から推測すると、開業当初は今の倍くらいの高さがあったとものでは?と考えられています。
見学では信号機跡から10数mほど離れての観察となりますが、前後の石垣と比較して目地が詰まっているような気もします。素人目からも、よりがっしりとした石垣構造に見えました。
ここに立っていた信号機は、現在の腕木式信号機とは少々形が異なり、「腕木が水平は停止、下向き45度は注意、真下を向いて柱の中へ隠れるようになった時が進行の合図」。桜木町駅内の「旧横ギャラリー」に同じ構造の信号機があります。
信号機は高さ8.8mあり、役割は遠方信号機でした。新橋〜横浜間には遠方と駅の場内、合わせて16基の信号機が設置され、遠方信号機は10箇所ありました。しかし、2箇所を除いて場所が分からず、今回この信号機跡の調査が出きたことで合計3箇所確認できたことになります。信号機の位置は品川停車場から800m〜900mの場所で、制動距離を考えた位置に設置されていたのではないかと推測しています。
築堤の基礎である盛土部分を観察する
さて、前回の続きです。
ボリュームがあるため、前置きは置いてさっそく進めましょう。見学会は午前中から数回分けて行われ、1回の時間は約45分間です。過去に開催した見学会は、第七橋梁や築堤全体の外観と出土品などの観察が多かったそうですが、今回は既に解体途中の築堤の構造を観察できます。築堤を輪切りにしたからこそ判別したこともありました。
カットされた築堤内部の見学は、10mほど離れた位置からです。信号機跡の品川寄り部分の築堤が、ホールケーキを半分カットしたように掘削されています。ここは解体されてしまうので、こういった思い切った調査ができるということでしょうか。もちろん掘削前には、敷き詰めた石垣もナンバリングし、埋没品も調査して、細かい作業があったはずです。
築堤内部の盛土部分を細かく観察します。私たちの目には単なる盛土に見えるのですが、実は基礎から盛り方まで、日本古来の方法で施工されてきたのです。
築堤中心の下のほうには、カマボコ状に土盛りした黒い土があります。それが築堤の「芯材」または「築堤基盤」と言われる、芯となる核部分です。築堤の最初はそこを造っていきます。築堤基盤は土盛りを叩きながら締めるよう非常に硬くします。
10mほど離れた位置からだと、築堤内部の一番下でこんもりしているのが築堤基盤であり、目視では一見柔らかそうなのですが、実は非常に硬いのです。この築堤基盤が要であり、その上から何層か盛土をしていきます。
気になるのは、築堤の土はどこから持ってきたのか?です。伝聞では、品川駅南側にある「八ツ山橋」付近に存在した八ツ山を崩して、築堤の土にしたとのことです。八ツ山に近い南側から築堤を築いていき、工事は田町方面へ北上していきました。
築堤基盤の上に被さっている土は粘土層があって、ちょっと黄色っぽいローム層(火山灰層)が堆積しています。同じ土質で盛ると滑ってしまうためです。土の物質を変えて築き上げるのは、日本の伝統的な土木工法でした。
築堤を覆う石垣構造を詳しく観察する
前号では石垣の組み方などを紹介しました。今回はもうちょっと掘り下げて観察します。石垣は前にも触れたように安山岩を使用し、海側は30°の傾斜角をつけた布積み。山側はほぼ直立にして谷積みです。30°の傾斜角である理由は、打ち寄せる波の衝撃を緩和するためです。
また信号機跡前後の築堤は、発掘当初から上半分の石垣が無く、前回で説明した「裏込石」と呼ぶ雑石が露出していました。これは明治末期に海側へ埋め立てる際、何かに再利用しようと撤去した可能性があります。そのおかげで、石垣の中の裏込石の構造がよく分かり、調査に役立ちました。
次に石垣の最下段を注目します。築堤の両サイドの底辺には「胴木」と呼ぶ角材を配置して、やや太めの杭を約90㎝間隔で打ち込んでいきます。それが石垣の土台になります。
目の前の石垣最下段にちらっと見える角材が胴木ですね。土と同化して見えにくいですが、それもそのはず。石垣の下部1mは海水に没していたから、建設から150年間の土砂で判別しにくくなっています。
胴木の前に杭が並行して打ち込まれています。だいたい4列くらいの「杭列」です。これは「波除け杭」と言いますが、実際の役割は築堤が海側へ崩れないようにするため、地盤固めの役割を持っていたと考えられています。築堤のストッパーですね。
土盛りして30°傾斜で石垣を布積みし、最下段は胴木の角材で石垣がずり落ちないよう押さえつつ、胴木がずれないよう「留杭」を地面に差してストッパーにする。さらにそこから海側へ4列の杭を打ち込んで、石垣の法面がずれてこないよう押さえ込む。
4列の杭の長さは約3mでした。一帯は元々海中だったため地盤があまり良くない。ところが掘っていくと、硬い粘土層が出てきます。その粘土層まで杭を差し込むように打つのです。
その結果、調査をした800mほどの海側は、現段階では大きくずれ込んだところは見つかっていません。この杭の列による地固めを行ったため、雪崩のように崩れることは無かったのではないかと。確認できたのは小さな修復箇所だけでした。
工事は高輪大木戸を境にして、南側を南工区、北側を北工区と分けていました。南工区は順調に進行しますが、北工区は運悪く台風などがあって、せっかく築いた築堤も波にさらわれてしまいました。前回の説明で、火災にあった瓦礫も築堤の土に使うほどであったのは、波にさらわれて土が足りなくなったのではなかろうか?と、私は推測しています。
結果的に工期が押してしまい、新橋〜品川間の開通が遅れました。そのため、品川〜横浜間を先に仮開業させていたのです。
さぁ今回はここまで。次回は出土品を見学します。
取材・文・撮影=吉永陽一