あの「一箱古本市」の街にある信頼の書店

3つの街の頭文字を取った「谷根千」はやがてこの雑誌だけでなく、互いに隣接し、空気感を共有するこのエリアの総称として人々の口に上るようになる。メインストリートの不忍通りには個性きらめく書店や喫茶店、雑貨店、ギャラリーなどがひしめき、ここを「不忍ブックストリート」と名付けて一箱古本市を開催。誰もが本の売り手にも買い手にもなれる環境で、本ばかりでなく一日中散策を楽しめるエリアとしてすっかり有名になった。

そしてこの不忍通り沿いにあるのが『往来堂書店』。千駄木駅から徒歩5分。根津駅から8分。およそ20坪の広さに2万冊。こう書くとギッシリ詰まった印象を持たれるかもしれないが店内は巧みなレイアウトで窮屈さを感じさせず、隅々まで見て回れるコンパクトさがうれしいお店だ。

「コロナ禍になってからもお店は休んでいません。去年、最初の緊急事態宣言が出た頃は、むしろいつもより忙しくなりました。大型書店が閉まったりしたこともあるでしょうし、地元に書店があることに気付いて寄ってくださる方が増えた印象です」

平日の午後2時過ぎにおじゃましたもののお客さんが多く、なかなかレジが空かない状況でようやく無理をお願いし、店長の笈入建志(おいりけんじ)さんに近況をうかがった。

往来堂書店という場で50名以上の出版関係者が集合――恒例企画の「D坂文庫」

コロナ禍によるいくらかの調整はありつつも、『往来堂書店』独特の棚の配置は健在だ。入ってすぐの正面は何らかの企画のコーナーになっているケースが多く、この日は11の出版社が合同で進める「四六判宣言」とのタイアップを展開中。

複数出版社が合同で毎年行う「四六判宣言」。
複数出版社が合同で毎年行う「四六判宣言」。

ここは不定期開催の往来堂オリジナルの文庫フェア「D坂文庫」が行なわれるスペースとして本好きのあいだでは有名だ。

「D坂」とは、江戸川乱歩もそう呼んだ本郷の団子坂のことで、『往来堂書店』と縁のある作家や翻訳者、書店員など50名以上が毎回それぞれ好きな文庫本を選び、それらのコメントをまとめた小冊子とともに、選ばれた文庫を並べるという恒例行事(不肖・私も参加させてもらったことがあります!)。

50人以上がセレクトした文庫本についてまとめた小冊子。カバーデザインは毎年、ミロコマチコさんが担当。
50人以上がセレクトした文庫本についてまとめた小冊子。カバーデザインは毎年、ミロコマチコさんが担当。

そして入り口向かってすぐ右に谷根千や上野界隈の本、東京本と街の本棚があり、その最上に森まゆみさんの著作と『谷根千』バックナンバーが並ぶ。

「谷根千」の名前はこの雑誌に由来する。
「谷根千」の名前はこの雑誌に由来する。

反対の左側はお酒や食に関する本ばかり集めた棚だ。

そしてなんといっても『往来堂書店』いちばんの醍醐味は、1つのテーマに沿った本がまとまって見られること。もちろん大型店ふくめ、どの書店もジャンル別に本が並んでいるのは普通だが、『往来堂書店』ではその分け方がもっときめ細かく、さらには「そうか、この本に興味を持つ人は確かにこの隣の本も読みたくなるだろうな」と納得させられる背表紙がひしめきあってワクワクさせられる。

女性、フェミニズムを考える棚。
女性、フェミニズムを考える棚。
山や自然、野性について考える棚。
山や自然、野性について考える棚。
アイヌをめぐる本ばかり集めた棚まである。
アイヌをめぐる本ばかり集めた棚まである。

この本が気になるならこの本も……。絶妙に編集された「文脈」の棚

こうした本の並びはジャンルやテーマからさらに進んで「文脈棚」と呼ばれることも少なくない。共通する世界観だったり、逆に同じ世界を違う角度から見ていたり、一度その世界に興味を持った人がどんどん読書の幅を拡げられそうな仕掛けがそこにはある。

海外文学も20坪の書店としては相当規模が大きく、「街の本屋としては、海外文学はだいぶ買っていただいている印象があり、好評です。この数年で棚の大きさも拡大しました」と笈入さん。

文庫本は出版社別に置かれている書店が多い中、ここでは著者別五十音順で探しやすくなっている。

文庫は基本、五十音順で、こうしたインデックスまで付いている。
文庫は基本、五十音順で、こうしたインデックスまで付いている。

加えてファンの多い岩波文庫や平凡社ライブラリーは、例外的にそれだけの棚を作る心にくさ。

笈入さんに『往来堂書店』ならではのオススメ本をお聞きすると、迷うことなく3秒ほどで2冊を即決。1冊は新潮文庫の『姫君を喰う話 宇野鴻一郎傑作短編集』。もう1冊は加藤圭木監修・一橋大学社会学部加藤圭木ゼミナール編『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』(大月書店)だ。

オススメの『姫君を喰う話 宇野鴻一郎傑作短編集』を手にする笈入建志店長。
オススメの『姫君を喰う話 宇野鴻一郎傑作短編集』を手にする笈入建志店長。

「単なる官能小説家として今ではほとんど読まれていない宇野鴻一郎を再発見しようと、新潮社さんが気合いを入れて作った本で、こういうのはウチのお客さんにジャストミート。先週まで文庫売り上げ1位でした。もう1冊は、映画やK-POPなんかで韓国に興味を持ちつつ、ネットで流布している言葉や家族の言葉にモヤモヤしている大学生たちが、そのモヤモヤの根源を探ろうとした記録で、自分のアタマでしっかり考えようとするこういう本って、今の時代、とても大事だと思うんです」

まるで畑違いの遠い本のようで、そこにある共通点に思わずうなってしまう。片や忘れられたものの「再発見」で、片や、うやむやなまま流されてしまいがちな気持ちをしっかりと捉え、「新発見」する本だ。

なにかおもしろそうな本はないかな。そんな軽快な思いとともにフラリと立ち寄れば、必ずや知らなかった「発見」に出合える店。こういう店が地上1階、路面店として年中無休(年末年始除く)開いているのだから、やっぱり谷根千はさすがだと思う。

その名のとおり、正しく「往来」で呼吸する本屋さんがここにある。

取材・文・撮影=北條一浩