大前粟生 Omae Ao

1992年兵庫県生まれ。2016年に『彼女をバスタブに入れて燃やす』で小説家デビュー。
著書は恋愛小説『きみだからさびしい』、2023年4月に映画化される『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』など小説の他、絵本、児童書、歌集もある。

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谷中ぎんざから、空が広々した谷中霊園を抜けて上野方面へ行ったり、団子坂へ行ったり。
大前粟生さんの散歩ルートはその日によってまちまちだが、これがなんとなくのベースだ。出かけるのは書いていたものがひと段落したり、行き詰まってきた時。
「ずっとパソコンに向かってフィクションを書いていると、鬱々としてくるのです。もっと外の世界と交流しなければと思い立って」、スニーカーを履くのだ。

面白いものとの出合いが小説のタネになる

いつものリュックサックを背負って、イヤホンからは好きな音楽をシャッフルで流し、ポケットにスマホを入れて。
出発したら、1時間ほど進んでUターン。同じ道を戻るわけではないが帰路も1時間として、毎回2時間ほど街を往く。

街に埋もれて、誰でもない自分を楽しむ。
街に埋もれて、誰でもない自分を楽しむ。

「東京に引っ越す前に住んでいた京都は、通りが碁盤の目になっていて迷うことはなかったけれど、東京はどこがどうつながっているのかよくわからなくて迷子になることもあります。車は入れなくて人だけが通れる道とか、坂道も多いですね」
大前さんの足取りは速くも遅くもない。アスファルトの上を歩いているとは思えないほど、ふわっと軽やかだ。そのせいか、ただぼんやり歩いているように見える。しかし、例えば、区の掲示板に貼られた地域のお知らせが気になって立ち止まる。そこには『談話室を再開しました』との文言。
「談話室が再開って、普段は使わない言葉で、文章の感じがとてもおもしろくて」。街のそこここにあるさまざまなキャッチコピーが気になるようだ。
「常になんか変なものないかなって、すごいキョロキョロしています」って、全然ぼんやりなんかしていない!思考も五感もたくさん働かせて歩き、変なものに遭遇したら、スマホで撮る。と思ったら次の瞬間、新たなる変なものを探しているようだ。
「街の中にある変な、ピンとくるものが、そのまま小説のアイデアになることもあるんです」
そして、谷根千エリアにたくさんある本屋も、とてもピンと来る存在なのだ。

散歩しなくちゃ出合えない本がある

「本はジャケ買いが多いかも」と、表紙にひかれた本を手に取って、書き出しを読んで全体をパラパラ。
「言葉が走っている感じとか、勢いがあるとか、文章のリズムを感じ取ります」
ネットでさまざまな本の情報を得ていても、書店で実際に見て触れてから選ぶのが大前さん流だ。
新刊書店の『往来堂書店』の入り口近くで手にしたのは、『ジャクソンひとり』(安堂ホセ著)。
「主人公は、東京に暮らすブラックミックスで、ゲイ。新人賞を受賞された小説で、今、読みたい文章です」と、同世代の作家の新鮮な作品に心を寄せる。

レジの前を通ってコミック棚へ。
「漫画、結構買います。1巻で完結している読みやすいものが多いですが、最近読んだのは『東京ヒゴロ』(松本大洋著)。編集者と漫画家の話で、とても身につまされました」
すぐ横の児童書・絵本の棚も念入りに見て、「おーっ!」と『たまごのはなし』(しおたにまみこ著)を発見してやさしい表情に。「絵がいいんです」。
しおたにさんは、大前さんの文章に挿絵を描いたご縁もある。
ある日、谷中ぎんざを南へ真っ直ぐ歩き、へび道を進んで遭遇したのが『雑貨と本 gururi』だ。
左の本棚の前に立ちどまり、丁寧に背表紙をたどる大前さん。
「うちにフェミニズム関係の本を並べている棚があるのですが、同じものが多いなあと思って」
「うれしいです。若いお客さんがこの棚から選んでくださることもあって、そんな時は感激して心が震えます」
大前さんと店主・渡辺愛知さんの会話が温かな空間に溶けていく。毎日多く新刊が世に出るなか、今必要とする本への思いをシェアするひと時。

道すがら、視線は斜め下、角に並ぶ不揃いの石ころに向けられる。
「いつ誰がここに置いたのだろう?」
寺院が多い一角で広い空を仰ぐ。変わった鳴き声で飛ぶ鳥、
「なんて名前なんだろう?」
歩を進め、本に触れるほど、視界が広がり五感が研ぎ澄まされる……。

なぜここに石がごろごろ?気になると立ち止まり、見つめて想像する。
なぜここに石がごろごろ?気になると立ち止まり、見つめて想像する。

季節ごとに生活リズムが変わるという大前さん、散歩タイムは昼間に限らなくて、夜中に歩くこともある。すると
「東京って何もせずにぶらぶらしている人がいて、安心するんです。ただスマホ見てぼーっとしている人とかね。自分も紛れて、誰でもない自分を楽しめます」

昼間とは違った感覚になれるのだ。
さて、日曜は歩行者天国になる藍染大通り方面へ。緑に覆われた建物で営む『ル・クシネ』は、本格フランス菓子の人気店だ。界隈の洋菓子店情報に長けている大前さん、スイーツは散歩の帰りによく買って帰るそうだが、ちょうどおやつ時なので、店先のベンチで、シュークリームとコーヒーを。
「おいしいお菓子は食べると、とてもわかりやすくひと段落付きますね」と、ほっとひと息。
「コーヒーはよく飲みます。コーヒーを飲まないと眠くて仕方ない」。かといって、散歩途中にカフェや喫茶店に入ることはなく、入る時は「原稿を進めるぞ」と決めて行くのだそう。

文章のリズム、歩くテンポ。散歩中も書き続ける

この界隈に引っ越してきたのは、家賃が手頃だったこととアクセスの良さにひかれたからだった。
「暮らしてみると結構静かで、犬がたくさん歩いているのがいいなあと。しかも、トリミングしたて?と思うような犬が多いんです」
動物が好きで、歩きながらすれ違う犬が気になる大前さん、今度は視線のピントが住宅の表札に合う。
「つい表札の名前を見てしまうんです。小説の登場人物の参考にすることもあって……」
ポケットからスマホを出すのは、おもしろいものを撮る時だけではない。「散歩しながら小説を書いていることもあって、思い浮かんだらリズムを崩さないよう、文章が途切れないように、スマホにメモするんです」
パソコンに向かい続けて行き詰まって、散歩に出かける。歩きながら新しい空気を吸って、変なものを見つけ、書店で本に出合う。そうすると詰まりが解けて再び流れ出すのだろうか。

「歩きながら小説の続きを書いています」。
「歩きながら小説の続きを書いています」。

夕暮れ時に立ち寄ったのは『古書 木菟』。散歩中に発見して以来、いつも気になる存在で、「こんなに翻訳文学が揃っているところは大型書店でもないです。本当にすごい」と、訪ねるたびに圧倒されている。
「変わったアイデアの小説に惹かれることが多く、普段から外国文学をよく読みますが、とても充実しています」
突然、《このコーナーは何だ?》とばかりに、本の山の前で、背表紙をのぞき込み、さらにその下に潜む本を確認し始めた。まるで宝物を探すかのように。埋もれていたのは絶版になった海外文学叢書。何かあるに違いないという動物的嗅覚のようなものが働いたのかも。
「翻訳の小説は絶版になりやすいので、本当に一期一会ですね」
こうしてリュックサックがずっしりと重くなり、スマホに写真とメモが増える散歩。世に出たばかりの新刊や、偶然手にした絶版本から受ける刺激、人の暮らしが息づく下町の日常のスケッチが、大前さんの文学を拓いている!

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往来堂書店[千駄木]

売れる本より、売れてほしい本を選書

街の人が気軽に立ち寄る親しみやすい書店。
街の人が気軽に立ち寄る親しみやすい書店。

小ぶりながら各ジャンルがすこぶる充実する新刊書店。例えば漫画の棚は、担当者が雑誌連載から読み込み、これから評価されるだろうとの視点で選ぶが、「注目作品が光ってますね」と店主の笈入建志さん。他の棚も然り。

最近、出版社の営業担当者を招き、おすすめ本をTwitter音声で紹介する“公開書店営業”を始めた。ぜひ注目を!

左が店長の笈入さん。
左が店長の笈入さん。
この日は漫画購入。一番上は絵本を一緒に作った宮崎夏次系さんの傑作選。
この日は漫画購入。一番上は絵本を一緒に作った宮崎夏次系さんの傑作選。
『ぞうのマメパオ』(藤岡拓太郎)を手に、「これ好きなんです」。
『ぞうのマメパオ』(藤岡拓太郎)を手に、「これ好きなんです」。

雑貨と本 gururi[千駄木]

へび道沿いの陽だまりのような店

「本も雑誌も、ある1人の架空の女性のために選んでいるんです」と店主の渡辺愛知さん。店内をゆっくり回遊すれば、その女性は世界の端っこの大切な出来事に敏感で、人生の道標を求めていて、素朴な自然にひかれ、猫が好きなのかなあ、と想像。くねっとした道沿いの凹みにあり、ぬくぬくとした空間だ。床には暗渠を印すマンホールが。

大前さんが「自宅の棚に似ています」と眺める棚はフェミニズム本が多い。
大前さんが「自宅の棚に似ています」と眺める棚はフェミニズム本が多い。
店内の温もりが外にこぼれる。
店内の温もりが外にこぼれる。
『わたしのペンは鳥の翼』(アフガニスタンの女性作家たちによる)。
『わたしのペンは鳥の翼』(アフガニスタンの女性作家たちによる)。
住所:東京都台東区谷中2-5-14C/営業時間:12:00~18:00/定休日:日・月/アクセス:地下鉄千代田線千駄木駅から徒歩5分

ル・クシネ[根津]

緑をくぐって出合う本格フランス菓子

限られた営業日を逃すまいと遠方から駆けつけるファンもいるが、界隈に長く暮らす常連客がひっきりなし。「食べ歩き用は、しぼりたてをご用意します」と、代表の鈴木孝治さんが手を動かしながら声をかける。

バリっと香ばしく焼き上げたシュー生地にバニラ香るカスタードがたっぷりの石窯シュー300円と淹れたてコーヒー400円を。

ちょっとひといき。
ちょっとひといき。
住所:東京都文京区根津2-34-24/営業時間:11:00~22:00頃/定休日:金・土・日のみ営業/アクセス:地下鉄千代田線根津駅から徒歩5分

古書 木菟(みみずく)[日暮里]

絶版本に遭遇できる翻訳文学の宝庫

「本が売るほどあったので並べてみようかなと思って」

古書店の主となった深沢誠さん、三子さん夫妻。以前は石屋だったと言う頑丈な造りの店内にみっちりぎゅっと詰まるのは2人が読んできた本で、「これでもまだ全部出し切ってないんです」。

ざっくり分けて入って右が誠さん、左が三子さんの棚。絶版の貴重本との出合いも期待大。

「前いらしたときは何を?」と、本の内容、感想を交換。
「前いらしたときは何を?」と、本の内容、感想を交換。
今日の一期一会は、『80年代アメリカ女性作家短編集』と『破壊しに、と彼女は言う』。
今日の一期一会は、『80年代アメリカ女性作家短編集』と『破壊しに、と彼女は言う』。
寺院に囲まれた静かな通りにある。
寺院に囲まれた静かな通りにある。
住所:東京都台東区谷中6-2-2/営業時間:12:00~19:00/定休日:月・火・水/アクセス:JR・私鉄日暮里駅から徒歩9分

取材・文=松井一恵 撮影=佐藤侑治
『散歩の達人』2023年1月号より

いまや東京を代表する散歩スポットととなったこのエリア。江戸時代からの寺町および別荘地と庶民的な商店街を抱える「谷中」、夏目漱石や森鴎外、古今亭志ん生など文人墨客が多く住んだ住宅地「千駄木」、根津神社の門前町として栄え一時は遊郭もあった「根津」。3つの街の頭文字をとって通称「谷根千」。わずか1.5キロ正方ぐらいの面積に驚くほど多彩な風景がぎゅっと詰まった、まさに奇跡の街なのである。