パン屋の連合で難局をしのぐ
初代宮川さんはもともと小田原の出身で、東京に出て和菓子職人などをやっていた。その後、70歳でパン職人となり開業。大正当時の周囲はまだのどかで、すぐ近くに陸軍の野砲連隊の兵営があり小売の他にパンを卸していたらしい。
連隊が近かったため戦中は空襲にもあったようだが、戦後もパンは作り続けた。しかし小麦粉などの材料が統制を受けて大量に入手するのが難しかった。そこで三軒茶屋にあった『大英堂』と『木村屋』とともに、『世田谷製パン』を名乗るように。事業規模が大きいほうが、材料を入手しやすかったのだ。
昭和30年代になると材料も入手しやすくなり、『世田谷製パン』を名乗るのは正太郎さんのみに。学校給食の卸など販路を広げていたが、2代目が急逝してしまい、急遽、3代目を探すことになった。そこで白羽の矢が立ったのが、宮川家と血のつながっていない親戚で、会社員をしていた正太郎さんだった。
パンのラインナップを変えたが
お互いの家のことをよく知っていたこともあってトントン拍子に話がまとまり、正太郎さんは現在の妻の佳子さんの夫として、『世田谷製パン』の3代目として店に入ったのだ。これが昭和47年のこと。しかし会社員だった正太郎さんは、パン作りの知識は皆無。店に入った当初は右も左も分からず、かなり苦労したそうだ。
今でこそ店周辺はマンションやビルが多く建ち並んでいるが、正太郎さんが来た頃は商店も多く、玉川通りにつながる道には商店街が形成されていたそうだ。
そんな中、正太郎さんは20年ほど前に店をリニューアルし、現在の姿にする。パンのラインナップにハード系のパンも加えた。新たなお客さんを獲得しようとしたのだが……。
「これがぜんぜん売れなかったんです。青山の店とか行って調査して作ったのに、売れるのは結局、あんパンとかクリームパンとか、昔ながらのものなんですよね」(宮川正太郎さん)
ハード系のパンが売れない。個人的に三宿、三軒茶屋といえば、落ち着いていてちょっとおしゃれなイメージを持っていたから、この言葉は意外だった。しかし、よく考えてみれば三軒茶屋の駅近く、飲み屋が集まる三角地帯などは、庶民的な雰囲気が濃厚だ。山の手と言うよりも、生活感のある下町なのだ。
安全、安心、添加物は使わずに
それに三軒茶屋は渋谷まで電車で、たったの2駅という立地。おしゃれして気取るならそちらに行くだろう。地元の三軒茶屋では肩肘張らずに食べられる、昔ながらの味が好まれるのだ。
店内を見回すと、ハード系のパンもあるにはあるが、メインはあんパンや総菜系の懐かし系がメイン。ただ、少しずつ工夫がされていて、とにかく種類が多い。正太郎さんによると、日々、勉強して新商品をいろいろと開発しているのだとか。
「パンは都心の店より郊外の店のほうが勉強になります。このへんなら、電車で多摩川を和渡って川崎のほう。都心の店のパンはおしゃれすぎて、このへんのニーズと合わないんですよ」
『せたパン』は、あくまで毎日食べられる、日常食としてのパンにこだわっているのだ。種類が多いのも、いつも来てくれるお客さんが飽きないようにとの、気持ちからだ。
三宿に来てから50年、パンを作り続けてきた正太郎さんの信条は「安全、安心、添加物をいっさい使わないパン作り」だという。毎日、食べるものだからこそ、とても大事なことだと思う。『せたパン』が日常の味として、長く愛されてきたのは、その思いがお客さんたちに伝わっているからなのだろう。
店に来るお客さんを見ていると、ラフな格好で「ちょっと買いに来ました」という感じの人が多い。これまでもこれからも、『せたパン』のパンは世田谷に暮らす人達にとって、気を許して食べられる、そんな相棒のようなパンなのだ。
取材・文・撮影=本橋隆司(東京ソバット団)