畦道の先に見えるのは2基の掩体壕。
畦道の先に見えるのは2基の掩体壕。
手前の畦道から掩体壕を望む。田んぼに水が張っているので浮島のように見える。
手前の畦道から掩体壕を望む。田んぼに水が張っているので浮島のように見える。

これが香取航空基地に残存する生き証人、掩体壕です。エンジン単発の機体(零戦など)が入る大きさです。

畦道を歩き近づくと、田んぼの中にポツンポツンとありました。ここもかつては航空機が行き交っていたのです。上記に転記した米軍航空写真の左上部分を拡大してみると、碁盤目に造られた道(水路?)の部分に、この2基が写っているのが分かります。その他の掩体壕は解体されたようですね。

前回でも紹介した米軍撮影の香取航空基地航空写真。 ■国土地理院航空写真 1948年3月2日米軍撮影 国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより
前回でも紹介した米軍撮影の香取航空基地航空写真。 ■国土地理院航空写真 1948年3月2日米軍撮影 国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより
上に紹介した米軍航空写真。掩体壕の部分を拡大すると、残存する2基が判別できる。■国土地理院航空写真 1948年3月2日米軍撮影(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより)を拡大
上に紹介した米軍航空写真。掩体壕の部分を拡大すると、残存する2基が判別できる。■国土地理院航空写真 1948年3月2日米軍撮影(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスより)を拡大

掩体壕のある場所は匝瑳(そうさ)市にあります。畦道に注意しながら掩体壕へ近づくと、セメントの合間から草木が生えて、こんもりとした塚のように見えます。掩体壕は敵機から判別しにくいよう、カマボコ状に鉄筋やセメントで製造したあと、土を被せてカモフラージュしていました。その名残もあって草木が育つ土壌ができていたのでしょう。カマボコの上部は草が生えています。

背後から見る。掩体壕の上部には草が生え、脇にも低木が生えている。
背後から見る。掩体壕の上部には草が生え、脇にも低木が生えている。

畦道を歩き、掩体壕の背後へ回ってみます。掩体壕は飛行機のエンジン排気を逃すため。背後は穴が空いています。以前、廃もので調布飛行場の掩体壕を観察したときは、背後の穴が小さかったのですが、ここは大人が屈んで入れそうなほど大きいです。背後の部分は脇から木が生え、田んぼギリギリまで低木が繁っています。

ここまで草木に侵食されていたら飛行機を避難させていたと言っても信じがたい。だが、上空からのカモフラージュにはちょうど良いかもしれない。
ここまで草木に侵食されていたら飛行機を避難させていたと言っても信じがたい。だが、上空からのカモフラージュにはちょうど良いかもしれない。

さらに調布飛行場のものとは異なり、背後はなだらかにすぼんではなく、大きなカマボコと小さなカマボコ、二段構えの構造です。一口に掩体壕と言っても、いろいろな形状があるのです。掩体壕は現場で土を盛り、その上に鉄筋とセメントで作り上げて、固まったら土を払って完成させます。現場で製造するため、場所によって形状が異なっていたのかもしれませんね。

もう1基の掩体壕は背後の部分も大きい。横幅は先ほどの掩体壕とほぼ同じと見えたので、単発機でも少々大型の機体を避難させていたかもしれない。
もう1基の掩体壕は背後の部分も大きい。横幅は先ほどの掩体壕とほぼ同じと見えたので、単発機でも少々大型の機体を避難させていたかもしれない。

もう1基の掩体壕は、ほぼ隣接してあります。双方の向きはそっぽを向いているので、これは爆風避けのためにわざわざ向きを変えたのか、それとも運用上の理由か……。

2基の掩体壕を背後から見るとそっぽを向いていた。
2基の掩体壕を背後から見るとそっぽを向いていた。

2基の掩体壕が田んぼの中でそっぽを向きあっている。この存在を知らなければ、モアイみたいな遺跡に見えるだろうな……。これを紹介する説明板は掩体壕の脇にあるので、稲作が始まった田んぼに近づいていいのか躊躇してしまいます。

背後の部分を拡大。滑らかに弧を描いているわけではなくカクカクと直線的になっていた。
背後の部分を拡大。滑らかに弧を描いているわけではなくカクカクと直線的になっていた。

夕刻が迫ってきました。掩体壕は夕方のアンバーな斜光のほうが映えるのではと思い、今回夕方前に訪れました。だんだんと日が沈んでくると、掩体壕も影が降り、正面のセメント部分が夕焼けで浮かび上がります。

草木の生えたこんもりとしたフォルムを背後から眺めていると、これは戦争遺構なのだが、何かの巨大生物が動きを止めたあと、そこに人の営みができて田んぼが形成されたのだと、全く異なる世界を想像していました。そう、ナウシカの作中で“大海嘯後に暴走を終えて果てた王蟲(オーム)の亡骸と、その亡骸から生える腐海の植物”のような……。

遠目から眺めても、上空からの攻撃から守るため堅牢そうなのがうかがえた。
遠目から眺めても、上空からの攻撃から守るため堅牢そうなのがうかがえた。

つくづく、掩体壕というのは不思議なフォルムをしています。この中に航空機が格納されていた時代を知らないので、本来の役目を見たこともなく、こうして田んぼの中にあったり、今回は見学しませんでしたが家の敷地にあったりと、なんとも不思議な光景なのです。そして、滑走路から離れたこの辺りまで基地の敷地だったと思うと、航空基地というのは広大な土地を必要としたのだと、あらためて再認識させられます。

夕焼けで照らされる掩体壕。凸型が特徴的で、機首とプロペラ部分が入れるようにかき取られている。
夕焼けで照らされる掩体壕。凸型が特徴的で、機首とプロペラ部分が入れるようにかき取られている。

最後に、この2基の掩体壕周囲は田んぼです。稲作のシーズンには農作業の邪魔にならぬよう配慮しましょう。駅からだとそこそこ歩きますが、コンビニもあるので小休止できます。

戦争遺構を訪れるたびに思うのですが、遺構の生い立ちは戦争のために出来たものであり、その時代の背景まで考えると、微妙な距離感というのをいつも感じます。田んぼの中にポツンとある掩体壕は、周囲の田園と集落にとけこんでいるような、あるいは異彩を放っているような、なんとも微妙な距離感を感じる光景でした。

千葉県の旭市に十字の滑走路が残る海軍飛行場跡がある。そう聞いたのはずいぶん前のこと。それから20数年。やっとのことで訪れました。旧海軍香取航空基地。場所は千葉県北東部、匝瑳(そうさ)市と旭市の境界です。電車だと総武本線干潟駅が最寄り。ここには海上自衛隊の練習機が保存され、周囲に掩体壕(えんたいごう)も残存しています。今回はちょっと短めですが、海自練習機を見学しつつ香取航空基地跡の全体を観察し、次回は掩体壕を紹介いたします。
碓氷峠。その名を耳にするとき、JR信越本線横川〜軽井沢間を登り下りするEF63形電気機関車と特急あさま号、おぎのやの駅弁「峠の釜めし」を思い出します。おそらく読者の皆さんのなかにも、碓氷峠のEF63を追いかけたという方がいらっしゃるでしょう。そこで“廃なるもの”碓氷峠編は、じっくりと紹介したく、3回に分けて語ります。来月までかかりますが、しばらくお付き合いください(笑)
全国津々、廃線跡はたくさんあります。道路になった場所もあれば、人を寄せ付けない山中にひっそりと存在する場所もあって、廃線跡と言ってもその形態は千差万別です。私はまだ訪れていない廃線跡も多々ありますが、いままで出会ってきたなかで、これは聖地に値するなというところがあります。川越市にある、西武安比奈線です。今回はボリュームも多めに、二回に分けて紹介します。

取材・文・撮影=吉永陽一