神保町で55年、老舗ラーメン店の歴史はある出会いから始まった
神田すずらん通りから、路地へ入ったところにあるカウンターだけの小さな店『伊峡』。創業から52年間は、メインストリートからほど近い場所にあったが、2019年6月に現在の場所へ移転した。
調理場に立つ沢木昭司さんは、2代目店主。店長と呼ぶと微妙に機嫌が悪くなるこの寡黙な料理人は、奥さんの佳代子さんと3代目となる長男に支えられながら、先代が残した『伊峡』の味を守っている。
『伊峡』という店名は、創業者である先代の出身地・長野県伊那市と南信州の名勝天龍峡(天竜峡)にちなんだもの。二代目店主である沢木さんとの間に血の繋がりはない。
北海道は羊蹄山の麓に位置する真狩村(まっかりむら)出身の沢木さんが、先代と出会ったのは、高校卒業後に就職した、とある大手企業の亀戸工場でのことだ。体を壊し、ラーメン店を休業して工場へ働きにきていた先代から、新しい店をオープンする際、「手伝ってくれないか」と誘いを受けたのだという。
先代と沢木さんが亀戸の工場に入らなければ、今の『伊峡』はなかった。まさに、運命の出会いだ。
昭和の全盛期は神保町に2店構えていた。うち1店舗を沢木さんが任されたが、1989年には、先代が他界。その数年後には先代の奥方も引退し、沢木さん一家がのれんを受け継いだ。
名物は半チャンラーメン。長年変わらない味を求めて毎日通う常連客も
ワンコインで食べられるラーメンは、いわゆる中華そば。初めて食べるのになつかしさを呼び覚ます、あったかい味わいだ。煮干し、かつお、昆布、鶏ガラ、豚骨などで作る醤油ベースのスープはさっぱり味。小池製麺所が作るストレートの細麺は喉越しがよく、スープとの相性も抜群だ。ガツンとくるパンチこそないが、自家製チャーシューのコクと、2、3日煮出して味付けをしたメンマの塩気をアクセントに、最後まで飽きることなく食べることができる。一方、半チャーハンは、シンプルな味付けながら、ほどよい塩加減といい、パラパラしすぎない水加減といい、ラーメンのお供としては文句のつけようがない。
特筆すべきは、後味のすばらしさだ。すっきりしていてもたれない。毎日食べたくなる常連客の気持ちが、すんなり理解できた。
平日11:00〜14:00のランチタイムは大盛りがサービスになるが、麺がなくなり次第、その日の営業は終了。この日も、15:25でのれんを下ろした。早い日は、14時に店を閉めることもあるという。
ラーメンは小銭で食べられるもの。こだわりはこれに尽きる
奥さんの佳代子さんに味のこだわりを聞くと、こんな答えが返ってくる。
「こだわりなんてないわよ。ダシに使う材料の産地やブランドにこだわっていたら、こんな値段でやってられませんから」
店主に聞いても、「こだわりなんか別にないよ、このまんま」と、同じようなご回答。変わらない味を守り続けて55年が過ぎた。節目節目で値上げはしているが、移転を機に20円上げるまでは、長年価格も据え置きにしていたという。
細かい質問は控えよう、そう思った矢先、佳代子さんが答えをくれた。
「唯一のこだわりは、リーズナブルな価格設定かな」
ラーメンは小銭で食べられるもの。これこそが、『伊峡』の譲れないこだわりだ。ラーメン一杯ならワンコインで食べられる。一番高いチャーシューワンタン麺に半チャーハンを追加しても、1000円を超えることはない。
構成=フリート 取材・文・撮影=村岡真理子