「ばあちゃんあっての店なんです」
店名の由来は、自宅の一部を改装して生まれたパン屋だから。
「うちの名字は比嘉で、私が子供の頃は“ひーちゃん”と呼ばれていました。そこから取ったらしいです。“比嘉さんちのパン”とするよりは“ひーパン”のほうが楽しい感じがしますし、お客さんも笑顔になってくれるんじゃないかなということで」とは、比嘉家の娘・梨沙さん。そう、ここは店主の比嘉恭三(やすかず)さん、妻の芳子さん、梨沙さんの家族3人で営む店。2019年4月11日に開店してようやく3年目に入ったという。
職人歴46年というパン焼きの大ベテランである恭三さんは沖縄県出身。大阪の調理師学校を出て上京し、調理師として虎ノ門にかつてあったホテル「東京農林年金会館」に勤めるうち、ケーキやパンの店を自分で持ちたいという夢が膨らんだ。そこで、住み込みの職人の求人を紹介された先が、芳子さんの実家で上石神井にあったパン屋だった。縁あって結婚した二人は沖縄に移住し、比嘉さんはハーバービューホテルのベーカリーで腕を磨き、再び上京。以後、長らく、実家のパン屋を両親と力を合わせて守ってきた。
「従業員さんを何人も雇うような大きな店で、たくさん作ってたくさん買っていただくというスタイルで続けてきました。でも、父が亡くなり母も高齢で介護が必要になり、主人も定年退職の年齢を過ぎて、家族だけで小さく好きにやっていこうということにしました。ね?」と芳子さんが言えば、梨沙さんも頷く。「ばあちゃんのことを考えると自宅でやるしかなくて。だからばあちゃんの存在あっての店なんです」。
自宅の改装にあたっては、山小屋風を目指して木材を多用。色味にもこだわり、一般的なパン屋で使われがちな白木はあえて避け、パンが引き立つようにシックなダークブラウンを基調とした。
梨沙さん「内装は基本、母と私が決めました」
芳子さん「床は木じゃなくてレンガ模様にこだわってね」
梨沙さん「お父さんはここ(厨房)の床を決めたくらい?」
芳子さん「色だけね!」
寡黙な恭三さんも一緒にどっと大笑い。和気あいあいとした何気ない家族の会話は、聴いてるこちらも楽しくなる。
住宅街の中での出店ということで、お隣との境には板塀を立て周囲へも配慮。開店してみるとご年配客が予想外に多く、ウッドデッキの階段の段差を低く変え、手すりをつけ、木製のスロープも設置。その改修工事のために、比嘉家の“ばあちゃん”に実際に歩いて確かめてもらったというから、まさに一家の力の結集だ。
「開店当初は大変でしたよ、お客様に知って頂けなくて。すぐそばには駅に抜ける道があって人通りはそれなりにありますが、そこを歩く人は脇道までは見ない。お店があるなんて誰も思わないから。近くのテニスコートに宣伝に行かせて頂いたり、偶然見つけてもらって広めてもらったりして、本当に少しずつ知られるようになりましたね」と芳子さん。
注目はコッペパンサンドの種類と具材のボリューム
そんな比嘉さんちのパンは、北海道産小麦粉のハルユタカ、酵母もバターなども国産品にこだわり、小さい売り場ながら、食パン、菓子パン、サンドイッチ、曜日替わりで登場する全粒粉パン、フランスパン、カンパーニュと、種類はまんべんなく焼き上げる。
1日20本は焼くという人気の食パンは、芳子さんの父がパン屋を開店した昭和34年当初にそうしていたように練乳入りがこだわりだ。
が、注目せずにはいられないのは、何と言ってもコッペパンサンドの種類と具材のボリューム。焼きそば、B・L・T、ホットドッグ、コロッケなど、おかずコッペだけで毎日20種類は並ぶという。いずれもフレッシュな野菜がふんだんに使われ、ソースまで自家製だ。さらに、ラムレーズンや粒あんバターなど、好みの組み合わせを注文できるおやつコッペパンに、果物を盛り込み見目麗しいケーキみたいなコッペサンドまである。
「お客さんがいらした時に、『わー!』と声を上げてくれるのがうれしくて。それに、パン1つで野菜がたっぷり摂れると栄養的にもいいじゃないですか。……ほら、こんなものもあるんですよ」。そう言って芳子さんが出してきたのは、店内に並べる商品のプライスカード。
その束をトランプみたいに1枚1枚めくって見せてくれる。……む? 厚焼き玉子フライ⁉
「これはね、どこかの喫茶店で卵焼きをフライにしたサンドイッチがあると聞いて、作ったんです。行ったことも食べたこともないのに(笑)。『ソースはきっとあるよね』なんてみんなで話しながら作ってみたら、梨沙の作ったソースが相性バツグンで即商品化しました」と芳子さん。
ほかにも、塩麴に一晩漬け込み柔らかくした鶏むね肉で作るチキンカツ、精肉店からヒレ肉を丸々1本仕入れて筋取りからしっかり手がけて作るヒレカツ、スイートチリ味、生スイートポテト、ティラミス、バスク風チーズケーキ、水ようかん……と次々出てくる。ちなみにこれらみな、サンドの具。もう、何屋さんなんだかわからなくなるくらいの充実ぶりだ。
すべては食べる人のため!
新作に関して特に研究熱心なのが梨沙さんで、「仕事が終わったっていうのに、自宅の台所で試作を始めるんですよ」(芳子さん)というから、頼もしき右腕だ。
材料への探求心も旺盛で、ゼリーの素には寒天やゼラチンよりも透明度が高く独特な弾力のある海藻原料のアガーを、焼き菓子のサクサク感にはパーム油脂によるトランス脂肪酸フリーのオーガニックショートニングを、と、極力安心できる物を地道に探して取り寄せる。そんなこだわりも実現できるのは小規模な個人経営の店だからこそ。
そして、それもこれも、すべては食べる人を喜ばせたいという一心から。だが、作り手たちも思いきり楽しんでいるのがいい。その楽しむ気持ちはパンの味わいに表れないはずはない。
「その代わり、数はたくさんできないんです。種類を多く出したいから1種類に3~4個くらいずつしか出せず、お客さんにご迷惑をおかけすることも……。ただね、この間、常連さんにうれしいことを言われました。うちは小さい店なので入店が一組ずつで、並んでお待ちいただくこともあるのですが、その列でお客さん同士が『これはきっと品切れね』『でも何かあるんじゃない』『私はあれが好きなの』って、好きなパンの話をしながら待っていて下さったんですって。その話を教えてくれた常連さんから『おたくはいいお客さんばかりでいいわね』と言ってもらえて、うちの店は幸せだなと思いました」と芳子さん。
開店から丸2年が経ち、どのようなパン屋を目指しているのだろうか?
「まだ3年目ですからね、もっと知って頂きたいのはもちろんですが、1個でもいいから『ここの〇〇パンじゃないと』と思ってくれたり、『あの店のパンがないとさみしい』と思ってくれる方が増えたらいいなと思います。みなさんの生活の中のパン屋さん、普段の生活のどこかの場面でうちのパンが登場するような、そういうお店になりたい。特別じゃなくていいんです」と芳子さん。
そんな思いを叶えるにはピッタリな住宅街の中で、『おうちパン工房ひーPAN』は今日も食べる人たちの生活に寄り添う。
取材・文・撮影=下里康子