柏原寛司

1949年、人形町生まれ。日本大学在学中から脚本の仕事を開始し、以降『大追跡』『探偵物語』『大激闘 マッドポリス’80』『あぶない刑事』などのメイン・中核ライターとして活動。『ルパン三世』『名探偵コナン』などのアニメ作品にも参加し、映画監督作も複数。シナリオ作家協会会長なども務めた。人形町に所有するテナントビルの地下で映写・試写施設も運営。

『探偵物語』『あぶない刑事』など手掛けた脚本の一部。アクションやハードボイルドの作品が多い。

人形町には7つの映画館があった

1960年の人形町通りに面した自宅前。写っているのは柏原さんのお母さんと妹さん。(写真提供=柏原寛司さん)

――柏原さんは人形町では4代目で、もとの家業はそば屋だったそうですね。

柏原 : 母方の先祖がそば屋でしたね。今ビルの1階に入ってるそば屋も親戚がやってますね。このあたりは下町だけど、その昔は元吉原。色街だよね。息子が玄人と遊ぶときは「行ってこい」って親が小遣いをくれる土地柄だし、実際に俺の友達なんかはもらってた(笑)。一方で「素人女を泣かせるな」とも教えられたから、ナンパするヤツはバカにされた。みんな男同士でつるんでたね。

――小さな頃は近所の寄席の末廣亭に通っていたそうですね。

柏原 : よく行ってたね。あと僕らの小さな頃はラジオの時代。落語も耳で聞いて覚えてたし、いくつも話せたね。野球を好きになって、長嶋さんの大ファンになったのも、アナウンサーの実況でイメージを膨らませてたから。

――お生まれが1949年なので、テレビが出てきたのは少し後の時代なんですね。

柏原 : テレビが来たのは小学校の2~3年の頃だったかな。カネ持ってる友達の家には、その前からテレビがあったから、よくそいつんちに見に行ってた。公園にも街頭テレビがあったからプロレスとかはみんなで見に行ったし、電気屋にも見に行ったな。

1960年頃の路地の雰囲気。こちらも柏原さんの妹さん。(写真提供=柏原寛司さん)

――力道山のジムも近くだったとか。

柏原 : 力道山道場は浜町に行く途中にあって、その上が新東宝の映画館。宇津井健の股間がモッコリの『スーパージャイアンツ』なんかを見に行った。当時はウチの隣のビルの角に仕立て専門のワイシャツ屋があって、そこにも力道山は来てたね。

――映画館は人形町に多かったと聞いています。

柏原 : 7軒ぐらいありましたね。封切館だと松竹、東映、大映、新東宝があって、邦画と洋画の3本立ての映画館もそれぞれあった。ピンク系も1軒あったかな。そういう映画館がいくつも入ってたのが、この通りの並びにあった「ユニオン会館」。『男はつらいよ』の初期の作品はそこで見たね。あと良かったのが、その上の階にトルコ風呂があったから、映画を見に行くと近所の人が出てくのが見えてね。「あいつバカだね」なんてみんなで笑ってたよ。

Vシネ版『ビー・バップ・ハイスクール』には実体験が元の話も

1954年の人形町の紙芝居の様子。おんぶされている柏原さんの姿も。(写真提供=柏原寛司さん)

――そうやって身近にあった映画の仕事を志すようになるわけですね。

柏原 : 受けた影響でいうと紙芝居も大きいです。ホントに小さな頃、おばあちゃんにおんぶしてもらって、「あっち行け」「こっち行け」って言って何箇所も見て回ってたから。あと映画作りの基本はジョン・ウェインの『アラモ』を36回も見て学んだのが大きかったな。俺らの頃は映画泥棒が当たり前で、みんなカメラ持ち込んで写真バチバチ撮ってた。今なら箱被ったヤツに捕まるよ。

――他にどんな映画が好きでしたか?

柏原 : 洋画の1位は『大脱走』。スティーブ・マックイーンの着てたA-2はアメ横に買いに行ったし、西部劇にハマったときはモデルガンも買いに行った。子供の頃は映画が遊びと密着してんだよね。あと日本映画は、おじいさんがヤクザだった友達の影響が大きかった。その友達は日本刀も持ってたから、本身でいろいろ斬って遊んでたし、その家のオヤジさんに『用心棒』や『七人の侍』を教わった。それで黒澤明も見まくって、「黒澤さんは娯楽っぽい作品のほうが面白いな」とか、作品の違いも分かってきた。

――柏原さんはやっぱりアクションや対決モノの作品が好きだったんですね。

柏原 : 僕らの時代は基本が対決ドラマだったからね。近所でももめ事はしょっちゅうだったし、下町には路地単位で縄張りがあった。昔のニューヨークのストリートギャングみたいな感じだよね。脚本を書いたVシネ版の『ビー・バップ・ハイスクール』とかは、自分の高校時代の体験をけっこう使ってるし、得意だったカンニングのテクニックなんかは、個人プレーから団体プレーまで『ゆうひが丘の総理大臣』で使った。自分がいたクラスは「カンニングしたヤツは席立て!」って先生が怒ったら、学級委員まで含めてほぼ全員立っちゃってね(笑)。

――どうしようもないクラスですね(笑)。

柏原 : 個人プレーをちょっと教えるとね、まずA4の紙に大きくVの字の線を引く。そしてVの内側部分にカンニングしたいことを書いておいて、椅子に敷いて座る。それで先生がいないとき、両足をパッと開いて見るわけだ。前の席のヤツが「先生、すみません、質問」って呼んだタイミングを見計らってね。そうやって下町でワイワイやってたことが脚本の仕事でも基本になってるわけね。

人形町通りにある柏原さん所有のビル。地下に試写室があり、2階がカフェだった空間だ。

下町でも西部劇でも人は苦しいときほどバカを言う 

自社ビルの地下は映写スペースに改造。試写等の際は柏原さんが映写作業をすることも。

――柏原さんは大学在学中に脚本家の仕事をはじめて、以降『傷だらけの天使』『探偵物語』『大激闘 マッドポリス’80』などに参加されています。『傷だらけの天使』のオサム(萩原健一)とアキラ(水谷豊)の関係は、ご自身が若い頃に過ごしてた世界に近いのではないでしょうか。

柏原 : 男同士の遊び方って、やっぱりああいう感じになるからね。それはだから書きやすいし、こっちのテリトリー。逆に女性が主役の話は俺には絶対ダメだから、受けないようにしてた。女性は神秘ですよ。よくわかんないんだから(笑)。

――ショーケンさんと柏原さんは多くの仕事を一緒にされていて、『豆腐屋直次郎の裏の顔』は下町の豆腐屋が主人公の話でしたね。

柏原 : 豆腐屋にしようってアイデアを出したのはショーケンなんだけど、ピッタリだったよね。このドラマを見た人は(下町が舞台だから)「これ自分のこと書いてるの?」って聞いてくるんだけど、下町の話だと自分の見聞きした経験はどうしても出てきますよね。

――脚本家の仕事をはじめてからも住まいはずっと人形町なんですよね。

柏原 : 居心地がいいし、銀座周辺の映画の本社にも10分で行けるからね。すぐそこが箱崎だから、海外にもサンダル履きのまま行けちゃうしさ。

――日本経済が成長を続ける中では人形町の街も変わりましたか?

柏原 : 変わりましたね。下町は路地の文化だったけど、70年代頃からだんだん各家庭にエアコンが入ってきた。室外機が路地に出てからその文化が廃れたね。昔の路地はみんなが涼む場所で、ふんどし一丁のおじさんが歩いてたり、縁台出して遊んだりしてたんだけど、全部だめになったから。

ビル2階は2021年までカフェ『人形町三日月座』として営業。今も映画グッズが並ぶ。

昔の刑事ドラマはすぐに拳銃を撃てた

――脚本を担当された『あぶない刑事』(1986年放送開始)を見ると、警察署員の木の実ナナさんの服装がバブリーで、いろいろな時代の違いを感じました。

柏原 : みんなカネがあって、趣味とか遊びが盛んだったからね。あと警察ドラマって、『踊る』(踊る大捜査線)が出てきてからは組織内部の話がメインになったけど、当時はまだすぐに拳銃を撃てる時代。喫茶店で脚本書いてるときに電話があって、電話口で「そいつ殺します?」なんてしゃべって周囲の人が引いてく……とかしょっちゅうだった(笑)。あとテレビドラマもまだフィルムだったから、独特の暗さや影を表現できたし、世界観を作り込むことができた。それがVTRになるとキレイに撮れ過ぎちゃうから、リアリティがなくなったんだよ。フイルムがなくなってからはテレビドラマとも関わらなくなったね。

モデルガンも多数所有するガンマニアの柏原さん。脚本作品でも銃がよく登場する。

――『あぶない刑事』は本格的なアクションの合間にもテンポよくギャグが挟まれるのが印象的でした。

柏原 : 西部劇もアメリカのアクション映画もそうだけど、状況が苦しくなれば苦しくなるほど人はバカを言う。それが下町と似てるんだよね。普段から仲間内でギャグの応酬をしてるから、ギャグを書くのはまあ楽です。でも粋なセリフは誰が言ってもいいわけじゃないし、ドラマは粋と野暮のせめぎ合い。粋が過ぎると野暮になるし、野暮がもまれると粋になる。下町と一緒です。

――その頃からアニメの仕事も多くされていますね。

柏原 : 『キャッツ・アイ』の2シーズン目の話なんかはアメリカ映画のつもりで書いてたね。国会議事堂の中にある絵を盗んで、庭を爆破して下の丸ノ内線で逃げるっていう話で、実写じゃ作れない話だから楽しかった。『ルパン』もアメリカ映画のつもりで書いてたね。

――『名探偵コナン』でオリジナルの脚本を作る仕事は、元々の世界観の制約もあって大変だったのではないでしょうか。

柏原 : 探偵モノの物語にはハードボイルドとミステリーの2タイプがあるけど、『コナン』は本格ミステリー。ハードボイルドは基本的に一人称だから、『探偵物語』みたいに優作が動いてほぼ全編に出てないと進まないんだけど、ミステリーは舞台的で、最後はみんなを集めて「あなたが犯人ですね」っていう話ね。俺はどっちかというとハードボイルド派なんで、『コナン』でやる時はいつもそれを苦労する。あとコナンがちっちゃいしね(笑)。

ドラマの犯人役の名前は街の幼なじみばかり!

――その後は同業者の方々とKOMという映画製作会社を作られて、この自社ビルに試写室も作られたんですよね。

柏原 : 最初は映画館にしたかったんだよね。映画の仕事も脚本家から入って、監督もプロデューサーもやったから、すごろくで言う上がりは映画館だなって。あと映画監督は仲間内に多いんだけど、撮っても公開するのが大変。でもウチで映画館を作っちゃえば製作から公開まで全部できるから。それで映画館を作ろうとしたんだけど、消防法がえらい面倒で許可がおりなくて試写室になった。ロビーにする予定だった2階は、「もったないからカフェでやれば?」ってカミさんに言って、映画好きも集まれるカフェにしたの。

――カフェは閉店されたそうですが、試写室は現在も稼働しているんですか?

柏原 : 今も『毎日映画コンクール』の審査員試写なんかをやってるし、若手の監督の完成試写をすることもある。『百円の恋』もオールラッシュもここだったからね。2階のカフェは芸能関係の仕事をしている甥が事務所で使っているほかに、レンタルスペースとしても活用してます。今はコロナの影響で中止してるけど、映画の研究会の『三日月座シネマ倶楽部』もやってたし、映画関係との人たちが集まれるスペースとしてここは残してますね。

試写・映写スペースとして活用中の地下フロア。もともとは居酒屋だったそうだ。

――人形町の街は今も好きですか?

柏原 : もちろん。住み心地はいいし、町内の人間関係もしっかりしてるから、お金を落とすなら知り合いの店に……って思うしね。特に俺は脚本で街のみんなの名前もたくさん拝借してるから。

――『探偵物語』の工藤俊作も柏原さんが名付け親なんですよね。

柏原 : あれは高校の先生の名前ね。服部、松本刑事もよくツルんでた中学校のダチの名前。ドラマの犯人役はほとんど幼なじみです。俺に逆らうとすぐ殺されちゃうんだよ(笑)。

取材・文=古澤誠一郎 撮影=三浦孝明
『散歩の達人』2021年5月号に一部加筆