東京駅の見どころ、教えてください!
教えてくれたのは……佐々木直樹さん
1960年、東京生まれ。練馬区在住。
日本で唯一の東京駅フォトグラファー。東京駅に関することならなんでも学び、話を聞く。その探求心は計り知れない。
著書に『東京駅100周年 東京駅100見聞録』、『東京駅の扉 辰野金吾没後100年に捧げる31の物語』(ともに日本写真企画)など。

今回、案内をしてもらった佐々木直樹さんは、自称 「東京駅非公式宣伝マン」 。駅舎の写真を撮ることはもちろん、東京駅と名がつく書籍、雑誌には必ず目を通し、暇さえあれば駅に通い、小さな変化も見逃さない。いわば “東京駅さんぽの達人”だ。

保存・復原工事の技術の粋を堪能する

「まずは、正面から見てみましょう」。佐々木さんと共に、皇室用玄関の前に立つ。まわりには記念撮影をしている人が多い。

「日の丸、松の木があって、周囲には広告がない。記念写真にはうってつけです。ちなみに松の木は10本、日の丸は畳三畳分の大きさです」。

レンガ造りの3階建て、皇室用玄関がある中央部を境に北と南にドーム部がある丸の内駅舎が現在の姿になったのは、2012年。東京駅が開業したのは大正3年(1914)。建物の設計は、日本銀行本店などを手がけた辰野金吾だった。昭和20年(1945)年の東京大空襲で3階部分が焼失、戦後に急ぎ復旧工事をして八角屋根の2階建てとなっていたが、2007年から創建当時の姿に戻すべく保存・復原工事がはじまり、5年かけて完成した。1〜2階部分は保存修復、3階と屋根は創建時の資料などを詳細に調べて復原し、さらに耐震・免震など建物の安全性を高めたのが、現在の建物である。よく見ると2階部分と3階部分ではレンガの色味が違うのだが、それはこうした駅の歴史の証しなのだ。

駅舎で使われているレンガは2種類ある。外壁は「化粧レンガ」、建物を支えているのは「構造レンガ」で、構造レンガの上に化粧レンガが貼られている状態だ。

「わたしたちが見ているのは化粧レンガです。鉄骨を支える構造レンガは、『東京ステーションギャラリー』の壁で見ることができます。化粧レンガはタイルのようなもので、保存・復原工事で使われたのは愛知県常滑産。創建当時のレンガに近づけるために何度も焼いて色合わせをしたそうです」。

化粧レンガの目地をよく見ると、半円形に盛り上がっているのがわかる。これは現在の目地のやり方ではなく、復原にあたっては職人泣かせだったという。ほかでは見られない美しい目地なので、ぜひ近づいて見てみてほしい。

保存・復原工事においては、レンガのみならず、銅板、石、スレート(屋根を葺く薄い石材)など各分野の職人が日本中から集まった。

「駅舎中央部の屋根には、宮城県雄勝(おがつ)産の天然スレートが使われています。いまでは国内唯一の産地です。用意していたものが、2011年の東日本大震災で津波にのみ込まれたんですが、奇跡的に残り、洗浄したのちに検査を経て、いまあそこにあるんです」。

佐々木さんは、スレートを洗い、屋根を葺(ふ)いた職人さんに会いに行っているだけに、説明にも熱が入る。試行錯誤を重ねて、およそ100年前の技術の復原に取り組んだ職人たちを思い、胸が熱くなる。

「東京駅が開業した当時は、南口は乗車専用、北口は降車専用の改札でした」。

佐々木さんはそう話しながら、現在の丸の内南口へ向かう。改札を通る前に南ドームを見上げる。創建当時の装飾を調査した上で可能な限り忠実に再現されていて、ワシ、動輪、干支、剣などさまざまなレリーフが配置されている。やわらかな色味の壁面に施された精細なレリーフの数々に見入って時を忘れる場所だ。

「天井の中心、車輪のようなモチーフのまわりに花の飾りがありますね。あれはクレマチスで、花言葉は『旅人の喜び』。これは推測ですが、設計した辰野金吾は、鉄道で旅をする高揚感を表現したかったんじゃないかと思っています」。

すべての鉄道路線は東京駅が基準

入場券を買って構内に入り、まず向かったのは5・6番線(山手線外回り・京浜東北線品川方面)。ホームには創建当初、屋根を支えていた柱が残っていて、刻印には明治四十一年とある。

「開業したのは大正3年ですが、工事はその6年前(明治41年〈1908〉)から始まったとされています。だからこの柱は工事着工の年のものですね」。

役目を終えたとはいえ、構内最古の功労者だ。柱にそっと触れてみる。

東京駅ならではの見どころとしてはずせないのが、0キロポスト。路線の起点となる標識で、5・6番線のホーム中央付近には、東海道本線と東北本線の起点がある。山手線、京浜東北線というのは便宜上の呼称で、正確には東京駅を境に北は東北本線、南は東海道本線なのだ。

「位置の基準は駅長室です。駅長室から各路線へまっすぐ延ばした延長線上に0キロポストがあります。日本の鉄道は東京駅を基準にしているため、 東京駅に向かう列車は『上り』、出発する列車は『下り』。つまり東京駅は日本一〝高い〞ところにあるわけです」。

佐々木さんの持ちネタを拝聴して、新幹線ホームへ。入場券を買い足さずに入場可能だ。
新幹線にも0キロポスト(ポイント)はある。東北・上越新幹線は20・21番線に、東海道・山陽新幹線は18・19番線に、それぞれ床に埋め込まれている。

「19番線には、ぜひとも紹介したいものがあります」 。

佐々木さんはそう言って、ホームの先端まで歩いていく。レンガ造りの碑のようなものがあるが、とくに説明書きはない。

「新幹線の父といわれる十河(そごう)信二のレリーフです。莫大な工事費を捻出するために尽力した人で、第4代国鉄総裁でもあります。そんな功績者なのに、このホームで行われた新幹線開業式典には招待されなかった。のちにこのモニュメントがつくられたわけですが、レリーフの肖像を見て『似とらん』と言ったそうです」。

モニュメントの裏に回り込むと、「東京―新大阪1964・10 552・6㎞」など、博多まで延伸した経過を記したプレートが埋め込んである。あなたが道を切り開いた新幹線は北海道にも九州にも延びましたよ、と十河さんに伝えたい

次に向かうのは、1・2番線、中央線の高架ホームだ。

「南ドームから北ドームまで見えるのは、このホームしかありません」と佐々木さんが言うように、ホームの端から端まで歩くと、丸の内駅舎のウラ側を間近に眺めることができる。駅舎にいちばん近い位置にあることもあるが、高架ホームのため3階建ての駅舎屋根がちょうどよく見える高さなのだ。

「保存・復原工事で 3階建てになったために、ぎりぎりホームに引っかかるところがあって、何十㎝か建物を削っています」。

ここでしか味わえない景色を楽しみたい

最後にやって来たのは、丸の内駅前広場。2017年に整備が終わったばかりの空間だ。ここには、ひときわ高い銅像が駅舎の方を向いて立っている。

「井上勝、鉄道の父といわれる人物です」。

明治5年(1872)、日本最初の鉄道である新橋〜横浜間を開通させ、のちの鉄道事業の発展に寄与したが、東京駅開業の4年前に没している。日本鉄道史の重要人物のひとりといえるが、いかんせん台座が高すぎて、銅像自体がよく見えない。

「私の持論ではありますが、東京駅には3人の父がいます。鉄道の父、井上勝。新幹線の父、十河信二。そして設計者の辰野金吾。辰野さんだけ銅像がないんです」。

佐々木さんは、少し残念そうに話す。長く東京駅と親しめば設計者への思い入れが深くなってくるのは当然だ。

「この駅舎を100年後も残したい。開業100年で保存・復原工事をして次の時代に引き継いだようにね。もしかしたら100年後は鉄道の駅ではなくなっているかもしれないけど、建物自体は必ず残っているはずです」

【東京駅ざっくりヒストリー】

大正3年(1914)

中央停車場完成。東京駅と命名

大正4年(1915)

東京ステーシ ョ ンホテル開業

大正12年(1923)

関東大震災被災。駅舎はとくに被害なし

昭和4年(1929)

 八重洲口開設

昭和20年(1945)

東京大空襲で被災。丸の内駅舎焼失

昭和22年(1947)

丸の内駅舎復旧工事完成。3階建てが2階に、南北ドームは八角屋根に

昭和39年(1964)

東海道新幹線開業

昭和62年(1987)

JR発足。東京駅はJR東日本とJR東海の管理下に

昭和63年(1988)

東京ステーションギャラリー開館

平成3年(1991)

東北・上越新幹線、東京〜上野間開業。日本橋口開設

平成15年(2003)

丸の内駅舎が国の重要文化財に指定される

平成19年(2007)

グラン スタを中央地下通路に開設

平成24年(2012)

丸の内駅舎保存・復原工事完了

平成25年(2013)

グラン ルーフ完成

平成29年(2017)

東京駅丸の内駅前広場完成

ドーム型が空襲で被災し、戦後すぐに復旧したときは、あくまで仮の姿のはずだった八角屋根。その後、60年以上、東京駅の顔となった。(2007年4月撮影)
ドーム型が空襲で被災し、戦後すぐに復旧したときは、あくまで仮の姿のはずだった八角屋根。その後、60年以上、東京駅の顔となった。(2007年4月撮影)