常磐橋
改修を重ねた明治10年(1877)建造の石橋は、東日本大震災を機に大規模修繕に突入。工期はたびたび延長され、なんと9年もの歳月がかかった。
「文明開化時の世相を残すため、古写真を参考に失われていた高欄手すり柵や水切り石も復元したんです」 と、復旧工事に携わった坂牧興一さん。特に水切り石は実物大模型を作り、3D測量して図面作成したというから驚く。解体時には約5000個もの石に番号を振り、並べ方や向きを管理。安山岩は真鶴産小松石、花崗岩は岡山産犬島石と、往時に合わせて補修を敢行した。
また基礎は、地盤を改良するために数多く打ち込んだ松杭にそろばん木を組む関東特有の工法を引き継ぎ、新補材に東日本大震災で流出した高田松原産の松を使用。さらには、石同士が組み合ってアーチを構築する伝統技法・空積みで再現するため、熟練の石工たちが石橋を叩き上げたとか。都内最古の通行橋は、伝統技のオンパレード。
文明開化の優美さとともに堪能したい。
~橋ものがたりは、そこかしこに~
この界隈には他にも歴史ある橋がある。そのいくつかを紹介しよう。
南高橋(みなみたかはし)
明治の技を伝える土木遺産
複数の三角形で骨組みを構成し、ピンで結合した鉄鋼トラス橋は昭和7年(1932)の架橋。一部に、関東大震災で損害を受けた明治37年(1904)竣工の旧両国橋を用い、道路橋として現存する鉄橋の中では都内最古だ。2016年、土木遺産に認定。
●東京都中央区新川2-31先
亀島橋
江戸時代の著名人も渡った橋
元禄12年(1699)あたりに架橋し、現在は鋼上路アーチ橋に。周辺は町奉行所の与力・同心の組屋敷、幕府御船手組(おふなてぐみ)屋敷が並び、治水・海運に尽力した河村瑞賢、日本地図を完成させた晩年の伊能忠敬、浮世絵師の写楽と思しき人も暮らしたとか。
●東京都中央区八丁堀1付近
鎧(よろい)橋
源平が祈りを捧げた由来が地名に
平安時代、荒波で沈みかけたことにより、源義家や平将門が兜と鎧を海中に投げて龍神に祈り、無事に渡ったと伝わる地。江戸期は渡し船が往来したが、明治5年(1872)に架橋。その後、米、油の取引所、銀行が林立し、現在の礎となった。
●東京都中央区日本橋兜町1-1先
京橋
時代で姿を変えた2世代親柱
慶長8年(1603)創建の日本橋と同時期の架橋。京へ至る東海道最初の橋で、昭和初期まで周辺に大根河岸、竹河岸などが立った。明治8年(1875)築の石造アーチ橋親柱は江戸伝統を引き継ぐ擬宝珠付き。大正11年(1922)竣工の親柱も立つ。
●東京都中央区京橋3-5付近
弾正橋
日本初の鉄橋はかつてこの地にあり
暗渠+首都高の間にある楓川弾正橋公園にひっそり展示されるのは、古の弾正橋を模したレプリカ橋。本物は明治11年(1878)、日本初の国産鉄製アーチ橋として架橋されたが、昭和4年(1929)に江東区に移築され、八幡橋と呼ばれている。
●東京都中央区八丁堀3-2先
一石橋(いちこくばし)
江戸初期から続く盛り場に人情あり
かつて南北に2つの後藤屋敷があり、後藤=五斗+五斗=一石と名付けられた。盛り場ゆえに迷子が多く、尋ね、知らせの双方が特徴を記して貼った「迷子しらせ石標」は現存唯一。また親柱1基は、大正11年(1922)造。モダンさを伝えている。
●東京都中央区八重洲1-11先
取材・文=佐藤さゆり(teamまめ) 撮影=丸毛 透
『散歩の達人』2021年5月号より