行けども行けども山城に到達せず……
宇佐山には中腹に宇佐八幡宮があり、山頂の城を目指す場合でも、途中まではその参道を通る。登山口から400メートルほどの八幡宮まではコンクリートで舗装された道。季節は秋。落ち葉の散らばる道をのんびり登ってゆく。
途中、朱色の柵に囲まれた一角がある。覗いてみると……。
神様の残した足跡で、健脚の御利益ありとのこと。宇佐山城までの比高は180メートル。道中の無事を祈って、手を合わせる。
金ヶ崎城もそうだったが、神社があると道が整備されているので、ぐっと登りが楽になる。ありがたみを感じているうちに、宇佐八幡宮に到着。登山口から10分ほど。
1065(治暦元)年、源頼義の建立。現地の石碑には「(志賀の陣)戦火により社殿は悉(ことごと)く焼失し荘厳な往時の様子は今に語り継がれている」とある。現在は小さな平地に、数棟の建物がひっそりたたずむ。周囲に茂る背の高い木々が、風に揺られかすかな葉音を立てている。
さて、ここからが本番だ。本殿脇の小道を抜けると、山頂へと続く山道の入り口が見えてきた。
道はここまでの参道と一転。ただし勾配はそれほどでもないな、と思いながら進むと、ちょうど神社の本殿裏を回りこんだ先から、雲行きが怪しくなる。
目指す宇佐山城ははるか頭上。どのぐらい先にあるのか不明。急勾配なので、直登は無理。つづら折りに何度も向きを変えながら、ひたすら進む。道幅は徐々に狭くなってくる。
それにしても、延々と続くな……。
道が逆向きに折り返す度に「そろそろ城域か?」と期待しては裏切られ、を繰り返すうちに、足の運びも鈍くなる。遺構のひとつでもあれば俄然やる気が出るのだが。
「このまま、延々と登り続けるのか?」とさえ思えてきた頃、突然、樹間になにか“異物”が見えてきた。
宇佐山城が廃城になったのは1571年(元亀2)よくぞ、こんな山中に残っていてくれた、と思わずにはいられない。ただしその場所は頭上数メートル。手が届きそうで届かない、チラ見せの石垣。もっと近くで見たい。
数十メートル登るとすぐに、大きな堀切部分が見えてきた。いよいよ城域内に突入。
宇佐山城は、ほぼ南北に伸びる尾根上に曲輪が並ぶ、比較的シンプルな構造だ。縄張図はこちら。
本丸と三の丸はいずれも、尾根上とはいえ幅の広い平坦な曲輪。自然地形のままではなく、駐屯できる兵を増やすため、人工的に削られた結果だろう。この城内の二大曲輪に挟まれる形で、大堀切がある。
当時の詳しい登城路は不明だが、尾根づたい以外となると、城の東西は急斜面のため、登ってきた敵はこの大堀切に誘い込まれるような導線になっている。そこに頭上から攻撃するために、二大曲輪が配されているわけ。実に理にかなっている。
本丸は現在、そのほぼすべてをアンテナ施設に占領されてしまっている。
その施設に物資を運ぶためか、西側の斜面に軌道が敷かれていた。
よく見るとこれ、下りは背中を向けて降りる式じゃないか。シートベルトはもちろんない。
縄張図に記された「貯水」の正体
と、個人的には楽しませてもらったが、本丸がこれだと、城好き的には「ガッカリ」だろう。
安心して欲しい。
本丸にはもちろん、城の遺構も残っている。
櫓跡と虎口のあちこちに、崩壊した巨石が転がっている。石積によって強化していた痕跡なのは間違いないだろう。櫓跡は高土塁のように数メートルの幅がある。敵の直進を阻み虎口の方へと迂回させる構造だ。
ここで縄張図を見直してみて、ふと妙なことに気がついた。
虎口、櫓跡、……貯水??? いや、城に水の手は確かに必要だが、なぜここ? 二の丸側に下りてみると、かなりしっかり凹んだ遺構が、数メートルほど同じ幅で伸びている。
これは空堀ではないのか? そう思えてしまう大きな理由が、“櫓跡の土塁に寄り添うように掘られていること”。土塁の二の丸側は切岸状に削られていて、ほぼ直角。
土塁と切岸と空堀を組み合わせれば、一気に防御力は高まる。そのための堀と考える方が、城造りのセオリー的に正しくないか? あるいは水の手と堀を兼用していた? 謎は深まるばかり。
宇佐山城、縄張はシンプルだが、押さえるところは押さえている。二の丸のさらに南側で尾根が一気に落ちていて、下から見上げるとご覧の通り。
おそらく自然地形に切岸加工を施した上に、さらに部分的に石垣を組んで強化している。その特徴は、本丸や二の丸の、東側の急斜面にも。
こちらはおそらく、元々急で切岸加工は不要だった斜面を、部分的に石垣で補強したのではないか。
ついに心臓部へ
そしていよいよ、最初に見上げた本丸東側の石垣へ。大堀切から本丸へと登る道の途中から、横堀状の小道が伸びている。曲がり角状の突出部を過ぎると、いよいよご対面。
見事な野面積。例えば熊本城や仙台城のような巨城の高石垣も感動的だが、山城の野面積みも負けていない、と言いたい。この場所まで運ぶ苦労も相当だっただろうし、風雨にさらされながら数百年も耐えぬいて、今に至っているわけだ。山城の石垣は、自然地形の制約も多いことが宇佐山城のそれを見ると実感できる。知恵を絞った築城者の立場になると、いつまででも眺めていられる。
しかしこの石垣、どこかで見たような気もする。特にこのうねりながら伸びる感じ……。第3回で紹介した、丹波・周山城の高石垣だ。もしかして光秀が城主の時代になってから、築かれたのだろうか。わずか1年ほどしかなかったはずだが。
ところで、宇佐山城の石垣は、後の安土城に通じるような視覚効果を狙った「見せる石垣」だったのではないか、との説がある。ただ個人的には、それはやや無理がある気がしている。
というのも、宇佐山城は比叡山延暦寺や浅井・朝倉軍と対峙することになってから、最前線に急造した陣城だ。さらに当時の信長は、数年後の安土城築城時のように、大量動員する余力はなかったはず。
現地で実際に目にした感想としても、斜面を補強したりより角度をつけるためという「実用第一」で築城されているようにしか思えなかった。
見逃せないもうひとつの大曲輪
本丸だけ落として満足してはいけない。山城の鉄則だ。大堀切の反対側にまだ、未踏の城域が残っている。
堀底を経由して三の丸側へ。宇佐山城の中でこの曲輪が最も眺望のきく位置にある。
真正面に広がっている平地が、後に光秀の領地となる坂本。琵琶湖岸には、細長く伸びた半島が2つ見えるが、右側の半島のたもとあたりに、宇佐山城廃城後に坂本城が築かれる。宇佐山城在城時の光秀もきっと、この光景を何度も見たはずだが、はたして自身の将来をどこまで想像していたのだろう。
写真の左手に向かうと比叡山の坂本口があり、さらにたどれば浅井家の小谷城や朝倉家の一乗谷へつながる。押し寄せる敵軍は、手に取るように把握できる絶好の見張台が三の丸だった。
三の丸の先は、尾根が急に落ち込んでいる。
数メートル下の帯曲輪まで足を伸ばしてみる。
実はこの先、尾根づたいに北曲輪群がある。足を伸ばしてみたい気持ちもあったが、これを下ると帰りは当然、登りだ。時刻は夕方16時過ぎでもあり、「本日はここまで」と珍しく自制して、帰路につくことにした。
北曲輪は、またの機会に。
『宇佐山城』詳細
取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂)