徳川家康殿が秀吉に屈した最大の理由が筆頭家老・石川数正殿の出奔。
徳川家最古参の数正殿が出奔したことは徳川家の内情、軍事機密が丸裸となったも同然。
ただでさえ戦力で劣る徳川家は攻め滅ぼされる前に従う他なかったのであろう。
石川数正殿の謀反の理由は明らかとなっておらぬ。
豊臣家との取次を任される内に関係が深くなったであるとか、好戦的な徳川家中から疎まれるようになったからであるとか、さまざまな憶測で語られておる。
『豊臣兄弟!』では、徳川家を守るため豊臣家に入り込んだと描かれておったわな。
いずれにせよ、家中No.2の裏切りという大事件によって徳川家はおおいに揺らぎ、天下を秀吉に奪われることとなった。
日ノ本の歴史でも指折りの大事件である。
じゃが!!
戦国の世、家中の副将、即ちNo.2が家を裏切ることは決して珍しくはなかったのじゃ。
ということで此度は副将・右腕に裏切られた戦国大名を紹介して参ろうではないか!!
いざ参らん!!
武田勝頼と穴山信君
まず初めに紹介致すのは武田家、甲斐の虎と恐れられた武田信玄殿の後継、勝頼殿じゃ。
武田家が信長様との戦に敗れ滅亡したことは皆も知っておろうが、その最大の理由と言えるのが、家中随一の実力者・穴山信君殿の離反である!
穴山信君殿は武田家一門の筆頭格。
武田信玄殿の姉を母にもち、自らの正室も武田信玄殿の娘と、二代にわたって武田家当主と婚姻関係を結び、実に頑強なつながりを持っておるのじゃ。
武田家の西上作戦でも功をあげ、大きな力を持っておったのじゃが、信長様による甲州征伐が始まると武田家を見限り織田家に従ったのじゃ!!
家中随一の実力者の謀反によって武田家は動揺し、これにつられる形で離反する者が続出した。
武田家は穴山信君殿の謀反から一月もたずに滅亡しておる。最大版図を築いてからわずか2年の出来事であった。
謀反の最大の理由として武田家存続の大義名分が挙げられることが多い。
信君殿は穴山家を武田家当主とし、甲斐の所領を安堵することを条件に織田家に従ったのじゃ。
穴山信君殿は本能寺の変後の混乱で討死したためにその嫡男が後を継ぎ、その後は信君殿の養女と徳川家康殿の間に生まれた武田信吉殿が当主となっておる。
この大義名分の他に言われるのが武田家当主・勝頼殿との不仲である。
そもそも武田信玄殿の後継であった嫡男の義信殿が信玄殿への謀反を企てたとされる義信事件によって廃され、これによって後継の椅子が突然空いてしもうたのじゃな。
代わって後を継いだ勝頼殿は元々、母の実家である諏訪家を継いでおって、武田宗家と深い血のつながりをもつ穴山家と横並びの一門衆の扱いであった。
同輩だと思っていた相手が急に当主となったためにわだかまりが生じたというのもよく取り上げられる謀反の原因である。
そもそも穴山家は独立性が高く、かの有名な長篠の戦いでの大敗の折にも武田四天王の内三人を含む数多くの重臣が討死する中、穴山隊は大きな損害を出すことなく撤退に成功しておるなど大きな権限を有しておった。
故に主君を幼き頃から支えた石川数正殿とは異なり右腕や忠臣というよりは家中の実力者としての二番手であるわな。
武田義信と飯富虎昌
先に名前を出した義信事件。
これも家中のNo.2が裏切った(?)出来事である。
この時裏切ったのは飯富虎昌殿、旧武田家四天王の1人にして元祖赤備えの猛将である!!
若き武田信玄殿を支え、武田家の中核、屋台骨であったのが虎昌殿。
10倍の兵力を持つ上杉謙信殿の軍を破る伝説のような戦ぶりも見せる名将でもあった。
そんな信頼厚き飯富虎昌殿は信玄殿の嫡男にして武田家次期当主・義信殿の後見役として養育を任された。
義信殿はよく育ち戦で武功を立てるようになったのじゃが、信玄殿が同盟相手で義信殿の正室の実家でもある今川攻めを強行したことで不仲になってしもうたのじゃ。
そして起こったのが義信事件。
飯富虎昌殿が義信殿を担いで信玄殿に反旗を翻そうとした事件である。
じゃがこれは未然に防ぐことができた。
なぜならば、飯富虎昌殿の弟・山県昌景殿が信玄殿に密告したからじゃ。
これによって武田家の筆頭家老・飯富虎昌は自害。虎昌殿もいわば右腕に裏切られたというわけじゃ。
義信殿は幽閉されたのちに亡くなっておって、これも信玄殿の手によるものと考えられておる。
この義信事件、よく似た出来事が徳川家でも起こっておる。それが信康事件じゃ。
信康事件は徳川家康殿と嫡男の信康殿の間で不仲が生じ、蟄居させたのちに信康殿は自害しておる。
この時の信康殿の後見人は石川数正殿、この時数正殿が処断されることはなかったが、この事件は後の数正殿の寝返りの禍根となったとも語られておる。
終いに
此度の戦国がたりはいかがであったか!!
我らが生きた戦国時代は下剋上の時代とも呼ばれる。
家中で最も大きな力を持つ者が主家を凌駕し、離れていくことは時代の流れであったとも言えるのじゃ。
本能寺の変を起こした明智光秀殿も織田家筆頭格の家臣であったし、後に豊臣家を滅ぼす徳川家も、豊臣政権二番手の存在であった。
徳川家は置いておいても、明智光秀殿は信長様から最も信頼される家臣であった。
故に石川数正殿の出奔と同様に理由がよくわかっておらぬわけじゃな。
さて、徳川家康殿が降ったということはいよいよ秀吉の天下統一も総仕上げ。
この先の大河ドラマも楽しんで参ろうではないか!!
此度の話はこれにて終い。
次回の戦国がたりで会おう。
さらばじゃ!
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)








