典型的な“働き者の町”だった

今や蔵前は、週末には若き男女がリノベカフェに列をなし、こだわりの器や雑貨を求めて街を巡る場所となった。おしゃれスペシャルティコーヒー店におしゃれな人々が集っていたりする。

ところが、だ。2001年1月号の『散歩の達人』の両国・蔵前特集を振り返ると、「東京じじぃの拠り所」と紹介され、「頑固な親父がウヨウヨしてる問屋街」なんて記してある。えっ? レトロな銭湯に現役の工房や倉庫、職人の手仕事。リアルな生活とものづくりが一体になっていた。今に至る変遷をたどってみよう。

1990年代までの蔵前は、戦前から続く玩具や雑貨の問屋が集中し、典型的な“働き者の町”だった。家族経営の商いが息づき、併設の工房で職人が手を動かす。2000年12月、都営大江戸線蔵前駅が開業。街は都心とより強く結ばれたが、当初は劇的な変化は起きなかった。2004年や2009年の『散歩の達人』本誌連載でも書かれているのは、下町の家並みとビル街が同居する風景や、戦前から続く近代建築「タイガービル」など、いぶし銀の風情である。

戦前から立つ現役の近代建築「タイガービル」は、ランドマーク的存在。
戦前から立つ現役の近代建築「タイガービル」は、ランドマーク的存在。

ものづくりのDNAに新風が吹き始めた

筆記用具が揃う『カキモリ』。天井の高い空間も気持ちいい。
筆記用具が揃う『カキモリ』。天井の高い空間も気持ちいい。

潮目が変わるのは2010年前後だ。2010年、オーダーノートの専門店『カキモリ』が開店。完成品を売るだけでなく、客が紙や表紙を選び、組み合わせ、一冊のノートに仕立てる。体験型のものづくりは、問屋街に浸透する精神の延長線上にあったともいえる。

2012年には『Nui. HOSTEL & BAR LOUNGE』が誕生。川沿いの倉庫をリノベーションした空間に、国内外の旅人が集う。開放的なバーラウンジは、誰でも訪れることができ、外国語と下町言葉が交差する場が生まれた。“外の風”が吹き込み始めた瞬間だ。

2015年ごろからは、デザイン系ショップやカフェの出店が目に見えて増える。2016年、サンフランシスコ発のビーントゥバー専門店『ダンデライオン・チョコレート ファクトリー&カフェ蔵前』が開業。製造工程を公開するスタイルが、街が歩んだ記憶に重なる。2017年には『菓子屋シノノメ』が登場し、のちに『喫茶 半月』を併設。焼き菓子とコーヒーを目当てに行列ができる光景は、これまでと違う景観を生み、違う層を呼び込んだ。

レトロなビルに入る『喫茶 半月』のある通り。街の景色が変わった印象。
レトロなビルに入る『喫茶 半月』のある通り。街の景色が変わった印象。

2018年ごろからはアーティストやクリエイターの拠点として注目されるように。2024年には「東京のクラフト/デザインエリア」として語られることが定着し、翌年にはエリア内のマンション「ザ・ライオンズミレス蔵前」がグッドデザイン賞を受賞。建築や都市デザインの観点からも評価される存在となった。

とはいえ、蔵前は生まれ変わったのではない。いぶし銀の土台の上に、新たな感性が重なったのだ。手仕事を尊ぶ気質、目利きの文化、地道に商いを続ける姿勢。奥底に変わらない蔵前の芯があったからこそ、クラフトやデザインの芽が育った。この30年の変遷は、徐々に姿を変えてきた街の“変態”の通過点なのだ。

蔵前のこれまで

1990年代
「モノづくりの街」として栄える
2000年12月
都営大江戸線蔵前駅が開業
2010年11月
『カキモリ』オープン
2012年9月
『Nui. HOSTEL &BAR LOUNGE』オープン
2016年2月
『ダンデライオン・チョコレートファクトリー&カフェ蔵前』オープン
2017年11月
「菓子屋シノノメ」オープン。1年後、『喫茶 半月』を併設し移転再オープン
2025年10月
蔵前エリアのマンション『ザ・ライオンズミレス蔵前』がグッドデザイン賞を受賞

取材・文=沼 由美子 撮影=逢坂 聡
『散歩の達人』2026年4月号より

店内にもうもうと立ち込めるタバコの煙。昭和から平成中期にかけて、喫茶店は喫煙者の安息地でもあった。その景色は時代と共に変化し、老若男女の憩いの場に。今も昔も誰かにとって大事な居場所だ。
高層ビルが次々と建ち、東京のスカイラインは大きく変わった。「でも、本当の変化は足元にあります」と建築史家の倉方俊輔さん。ここ30年で進化した「街と建築の捉え方」とは?
1996年は、書籍・雑誌の売り上げがピークの年。その後、書店はどう歩んできたのか。大型チェーン店、個人経営の新刊書店、独立系書店、古書店と、違う形態の書店の店主の声を聞いた。
その空間に何度心が昂(たかぶ)っただろう。30 年で一般化した「大衆酒場」という言葉は、立ち飲みやネオ酒場まで飲み込むほど、懐を広げていった。無数の杯を重ね、『散歩の達人』が追い求めてきた、よき大衆酒場とは。