江戸時代で申せば大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』でも描かれた浅間山の大噴火や富士山の大噴火がなければ、飢饉や政治的混乱が起きず江戸時代はもっと続いておったやもしれん。
儂、前田利家に関わるところで言えば、儂があと数年長く生きておったら関ヶ原の戦いが起こらず、豊臣家の世が長く続いておったのかも知れぬとよく語られておるのじゃ!
して、ここからが本題である。
此度例に挙げた歴史の契機に並ぶほどに重大なる“もしも”が、実は江戸時代の名古屋で起こっておるのじゃ。
この戦国がたりでは、名古屋が歴史を左右した出来事を紹介して参ろうではないか!
いざ参らん!!
幕末の名古屋史
天下屈指の堅牢さを誇る名古屋城は、江戸幕府にとっての最大の要所・中山道や東海道を押さえるこの名古屋を守るために築かれた城である。
徳川殿は力ある外様大名の多くを西国に置き、万が一謀反が起きたとしてもこの名古屋城で敵を食い止め江戸を守る。
まさに徳川家の天下を守るための砦であった。
この名古屋城があれば徳川家は安泰、裏を返せば絶対に失ってはならぬ場所であったために、尾張藩には将軍家に次ぐ領地と家格を与えたのじゃ。
じゃが!
結論から申せば、徳川の世が終わった幕末戊辰戦争において尾張藩は将軍家に味方しなかった。
もしも尾張藩が徳川家に味方しておったら、これは時代を大きく変えたであろう“もしも”であるわな。
それでは、この“もしも”に目を向ける前に、まずは尾張藩が徳川方を離れた経緯を話して参ろう。
江戸後期の名古屋城
前に「戦国がたり」で江戸中期までの尾張藩について話を致した。
徳川殿の九男が藩祖となり徳川将軍家に次ぐ地位の御三家筆頭の立場を与えられたことや、優れた政策によって日ノ本屈指の商人街となったこと、そして将軍宗家の血筋が絶えた折に、弟分である紀伊藩・徳川吉宗殿が将軍となって尾張藩は将軍を輩出する機会を失ったことを話したわな。
徳川吉宗殿が将軍となって以降、将軍家は吉宗殿の子孫。即ち紀伊徳川家が後継となった。弟分だと思うておった紀伊藩が主君筋となった尾張藩の心情は如何様であったかのう。
ただ尾張藩の受難はこれだけにとどまらぬ。
大河でも登場した九代藩主・宗睦殿で尾張藩宗家の血筋が絶えてしまうのじゃ。
その後、将軍家の命で尾張藩主となったのは徳川斉朝殿、『べらぼう』で生田斗真殿が演じ権謀術数を尽くし暗躍した一橋治済(はるさだ)殿の孫、即ち紀伊藩の血筋である。
尾張藩士は将軍家どころか尾張藩までもが弟分であったはずの紀伊藩の手のものになったと嘆き、のちにこれは「押しつけ藩主」と呼ばれたのじゃ。
しかもこの押しつけ藩主、ここから四代も続いた。
四代ともに将軍家や御三卿出身で、一度も尾張の地を踏まなかった藩主もおるし、十二代藩主・徳川斉荘殿が亡くなった時には尾張藩の分家・高須松平家の徳川慶勝殿が後継候補として挙がっておったのにもかかわらず、わずか10歳の徳川慶臧殿が藩主として据えられたこともあった。
尾張藩士の幕府への不満は募る一方であった。
じゃが、押しつけ藩主の徳川慶臧(よしつぐ)殿は就任から四年で亡くなり、尾張藩の不満を感じ取った幕府は次なる藩主を先に候補に上がった徳川慶勝殿に定めた。
これによって久方振りに尾張藩の地を継ぐ藩主が誕生し、尾張藩と将軍家の軋轢は多かれ少なかれ解消される。
と思うた矢先、さらに不穏な尾張藩と将軍家の関係をさらに悪化させる一大事がおこる!
それが安政の大獄である。
安政の大獄は大老・井伊直弼(なおすけ)殿による独裁的政治のこと。
御三家筆頭の徳川慶勝殿は幕府へ物申せる数少ない人物であったため、井伊直弼殿の専横を止めるべく江戸城に登城、直弼殿を咎めたのじゃが、直弼殿は反対に慶勝殿の登城を問題行動として慶勝殿へ隠居謹慎処分を言い渡したのじゃ。
これによっていよいよ尾張藩士の幕府への反発は抑えられなくなり、尾張藩は親幕府派と反幕府派で別れ争うこととなった。
時は進んで大政奉還の後、ついに幕府と反幕府勢力が激突した鳥羽伏見の戦いで幕府方が敗走すると京におった慶勝殿は尾張へ戻った。
尾張に帰った慶勝殿がしたのは反幕府軍との戦の支度ではなく、親幕府派の家臣の粛清であった。
この事件は処刑された親幕府派の重臣・渡辺在綱殿の異名から「青松葉事件」と呼ばれておる。
何故尾張藩は幕府に味方しなかったのか、無論此度紹介した幕府との数多の軋轢はその一因であろう。
じゃが、これには初代尾張藩主・徳川義直殿より続く尾張藩の藩訓が大きく関わっておる。
「王命に依って催さるる事」つまりは朝廷の命によって行動せよという意味じゃ。
この言葉は義直殿が残し、秘訓として尾張藩に伝わったもの。
すでに反幕府勢力が朝廷を担いだ以上は、幕府方につくことはできないという決断であろう。
もしも尾張藩が幕府方だったら
尾張藩史をなぞったところで、いよいよもしも尾張藩が徳川方についておったら!
を語って参ろう!
現世においては新政府軍と呼ばれる反幕府勢力が圧倒的に力を持って追ったように語られるが、実はこの時点ではそうでもない。
局所戦である鳥羽・伏見の戦いでは敗れたけれども、東国の多くは徳川に味方するものが多かった。
むしろ尾張藩が幕府を離れたことで飲み込まれる形で新政府軍に恭順した勢力が多かったのじゃ。
無論、名古屋城の堅牢さは日ノ本随一、長きにわたる籠城戦にも耐えられる造りとなっておるぞ!
故に尾張藩が籠城の構えを見せれば、名古屋城で敵方を足止めし、その間に幕府を筆頭に東海や東国の大名たち、そして戊辰戦争で最も頑強に戦った東北勢が兵を整え新政府軍を押し返すことが叶うやも知れぬ!!
そして忘れてはならん存在がおるわな。
尾張徳川家を凌ぎ、幕府を除けば日ノ本一の大大名。
我が子孫たち、加賀前田家である!
前田家は鳥羽・伏見の戦いにおいても幕府の派兵要請に従うなど親徳川派として動いておったそうじゃ。
援軍が間に合わず幕府方が敗走したため、後に新政府軍に従ったと聞いておる。
尾張藩が気を吐いたならば加賀藩も徳川方として残っておったやもしれんじゃろう。
となれば、加賀と尾張から新政府軍を挟撃することも叶うわけじゃ!
西国にも高松藩や松江藩、福山藩など幕府方として抵抗する家がいくつか残っておったからのう。
反転攻勢に出ることが叶うやもしれん。
あるいは各勢力が中央に集結いたし、関ヶ原のあたりで一大決戦が起こっておったことも考えられるわな。
終いに
ということで此度は歴史のもしもについて語って参ったが如何であったか。
なかなか面白き夢想だったのではないか?
歴史は揺るがぬものなれど、もしもを考えるのは実に浪漫のあることではないかと思うておる。
いよいよ年の瀬が近づいて参ったのう。
本年は江戸時代にまつわるさまざまな話を致したわな。
『べらぼう』も間もなく最終回。
此度の戦国がたりは『べらぼう』の終いに合わせて江戸時代と尾張藩の終わりについても語って参った次第である。
いよいよ年明けからは戦国大河が戻ってくるでな、楽しみに待とうではないか。
次の戦国がたりは『豊臣兄弟!』予習特集といたそうではないか!
しばし待て!
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)






