江戸時代で申せば大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』でも描かれた浅間山の大噴火や富士山の大噴火がなければ、飢饉や政治的混乱が起きず江戸時代はもっと続いておったやもしれん。

儂、前田利家に関わるところで言えば、儂があと数年長く生きておったら関ヶ原の戦いが起こらず、豊臣家の世が長く続いておったのかも知れぬとよく語られておるのじゃ!

して、ここからが本題である。

此度例に挙げた歴史の契機に並ぶほどに重大なる“もしも”が、実は江戸時代の名古屋で起こっておるのじゃ。

この戦国がたりでは、名古屋が歴史を左右した出来事を紹介して参ろうではないか!

いざ参らん!!

幕末の名古屋史

名古屋城。
名古屋城。

天下屈指の堅牢さを誇る名古屋城は、江戸幕府にとっての最大の要所・中山道や東海道を押さえるこの名古屋を守るために築かれた城である。

徳川殿は力ある外様大名の多くを西国に置き、万が一謀反が起きたとしてもこの名古屋城で敵を食い止め江戸を守る。

まさに徳川家の天下を守るための砦であった。

この名古屋城があれば徳川家は安泰、裏を返せば絶対に失ってはならぬ場所であったために、尾張藩には将軍家に次ぐ領地と家格を与えたのじゃ。

じゃが!

結論から申せば、徳川の世が終わった幕末戊辰戦争において尾張藩は将軍家に味方しなかった。

もしも尾張藩が徳川家に味方しておったら、これは時代を大きく変えたであろう“もしも”であるわな。

それでは、この“もしも”に目を向ける前に、まずは尾張藩が徳川方を離れた経緯を話して参ろう。

江戸後期の名古屋城

前に「戦国がたり」で江戸中期までの尾張藩について話を致した。

皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。皆は本年(2025年)の大河ドラマ『べらぼう』は見ておるかのう!その華々しくも冷淡な江戸時代が見事に描かれておるわな。久しく触れておらんかったが、『べらぼう』に合わせ江戸の文化の話や我が加賀藩の江戸時代について語っておる。然りながら、我ら名古屋おもてなし武将隊の本拠地である尾張江戸時代については語ったことがなかったで此度はその話をして参ろうではないか!!題して「『べらぼう』に追いつけ、尾張江戸時代史」ということで、早速いざ参らん!

徳川殿の九男が藩祖となり徳川将軍家に次ぐ地位の御三家筆頭の立場を与えられたことや、優れた政策によって日ノ本屈指の商人街となったこと、そして将軍宗家の血筋が絶えた折に、弟分である紀伊藩・徳川吉宗殿が将軍となって尾張藩は将軍を輩出する機会を失ったことを話したわな。

徳川吉宗殿が将軍となって以降、将軍家は吉宗殿の子孫。即ち紀伊徳川家が後継となった。弟分だと思うておった紀伊藩が主君筋となった尾張藩の心情は如何様であったかのう。

ただ尾張藩の受難はこれだけにとどまらぬ。

大河でも登場した九代藩主・宗睦殿で尾張藩宗家の血筋が絶えてしまうのじゃ。

その後、将軍家の命で尾張藩主となったのは徳川斉朝殿、『べらぼう』で生田斗真殿が演じ権謀術数を尽くし暗躍した一橋治済(はるさだ)殿の孫、即ち紀伊藩の血筋である。

尾張藩士は将軍家どころか尾張藩までもが弟分であったはずの紀伊藩の手のものになったと嘆き、のちにこれは「押しつけ藩主」と呼ばれたのじゃ。

しかもこの押しつけ藩主、ここから四代も続いた。

四代ともに将軍家や御三卿出身で、一度も尾張の地を踏まなかった藩主もおるし、十二代藩主・徳川斉荘殿が亡くなった時には尾張藩の分家・高須松平家の徳川慶勝殿が後継候補として挙がっておったのにもかかわらず、わずか10歳の徳川慶臧殿が藩主として据えられたこともあった。

尾張藩士の幕府への不満は募る一方であった。

じゃが、押しつけ藩主の徳川慶臧(よしつぐ)殿は就任から四年で亡くなり、尾張藩の不満を感じ取った幕府は次なる藩主を先に候補に上がった徳川慶勝殿に定めた。

これによって久方振りに尾張藩の地を継ぐ藩主が誕生し、尾張藩と将軍家の軋轢は多かれ少なかれ解消される。

と思うた矢先、さらに不穏な尾張藩と将軍家の関係をさらに悪化させる一大事がおこる!

それが安政の大獄である。

桜田門。
桜田門。

安政の大獄は大老・井伊直弼(なおすけ)殿による独裁的政治のこと。

御三家筆頭の徳川慶勝殿は幕府へ物申せる数少ない人物であったため、井伊直弼殿の専横を止めるべく江戸城に登城、直弼殿を咎めたのじゃが、直弼殿は反対に慶勝殿の登城を問題行動として慶勝殿へ隠居謹慎処分を言い渡したのじゃ。

これによっていよいよ尾張藩士の幕府への反発は抑えられなくなり、尾張藩は親幕府派と反幕府派で別れ争うこととなった。

時は進んで大政奉還の後、ついに幕府と反幕府勢力が激突した鳥羽伏見の戦いで幕府方が敗走すると京におった慶勝殿は尾張へ戻った。

尾張に帰った慶勝殿がしたのは反幕府軍との戦の支度ではなく、親幕府派の家臣の粛清であった。

「青松葉事件之遺跡」碑。
「青松葉事件之遺跡」碑。

この事件は処刑された親幕府派の重臣・渡辺在綱殿の異名から「青松葉事件」と呼ばれておる。

何故尾張藩は幕府に味方しなかったのか、無論此度紹介した幕府との数多の軋轢はその一因であろう。

じゃが、これには初代尾張藩主・徳川義直殿より続く尾張藩の藩訓が大きく関わっておる。

「王命に依って催さるる事」つまりは朝廷の命によって行動せよという意味じゃ。

この言葉は義直殿が残し、秘訓として尾張藩に伝わったもの。

すでに反幕府勢力が朝廷を担いだ以上は、幕府方につくことはできないという決断であろう。

もしも尾張藩が幕府方だったら

尾張藩史をなぞったところで、いよいよもしも尾張藩が徳川方についておったら!

を語って参ろう!

現世においては新政府軍と呼ばれる反幕府勢力が圧倒的に力を持って追ったように語られるが、実はこの時点ではそうでもない。

局所戦である鳥羽・伏見の戦いでは敗れたけれども、東国の多くは徳川に味方するものが多かった。

むしろ尾張藩が幕府を離れたことで飲み込まれる形で新政府軍に恭順した勢力が多かったのじゃ。

無論、名古屋城の堅牢さは日ノ本随一、長きにわたる籠城戦にも耐えられる造りとなっておるぞ!

故に尾張藩が籠城の構えを見せれば、名古屋城で敵方を足止めし、その間に幕府を筆頭に東海や東国の大名たち、そして戊辰戦争で最も頑強に戦った東北勢が兵を整え新政府軍を押し返すことが叶うやも知れぬ!!

そして忘れてはならん存在がおるわな。

尾張徳川家を凌ぎ、幕府を除けば日ノ本一の大大名。

我が子孫たち、加賀前田家である!

前田家は鳥羽・伏見の戦いにおいても幕府の派兵要請に従うなど親徳川派として動いておったそうじゃ。

援軍が間に合わず幕府方が敗走したため、後に新政府軍に従ったと聞いておる。

尾張藩が気を吐いたならば加賀藩も徳川方として残っておったやもしれんじゃろう。

となれば、加賀と尾張から新政府軍を挟撃することも叶うわけじゃ!

西国にも高松藩や松江藩、福山藩など幕府方として抵抗する家がいくつか残っておったからのう。

反転攻勢に出ることが叶うやもしれん。

あるいは各勢力が中央に集結いたし、関ヶ原のあたりで一大決戦が起こっておったことも考えられるわな。

終いに

ということで此度は歴史のもしもについて語って参ったが如何であったか。

なかなか面白き夢想だったのではないか?

歴史は揺るがぬものなれど、もしもを考えるのは実に浪漫のあることではないかと思うておる。

いよいよ年の瀬が近づいて参ったのう。

本年は江戸時代にまつわるさまざまな話を致したわな。

『べらぼう』も間もなく最終回。

此度の戦国がたりは『べらぼう』の終いに合わせて江戸時代と尾張藩の終わりについても語って参った次第である。

いよいよ年明けからは戦国大河が戻ってくるでな、楽しみに待とうではないか。

次の戦国がたりは『豊臣兄弟!』予習特集といたそうではないか!

しばし待て!

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)

皆々は4月28日は何の日か知っておるか?早速答えに参るが、答えは「象の日」である!何々の日の類は日付の語呂合わせで定められることが多いわな。因(ちな)みに同じく4月28日は、良い庭の日(よ〈4〉いに〈2〉わ〈8〉)でもあるぞ!じゃが象の日はそうではなくてな、歴史上の出来事に因んで記念日に定められておるのじゃ。それは、日ノ本で初めて象が帝に拝謁した日である!初めてと申しておきつつ、二度目があったかは分からんけれども、享保14年(1729)4月28日に京の都にて謁見した記録が残っておる。官位を持たぬ者は帝に謁見できぬ決まりがある故に、急遽官位が用意されたとの逸話も残っておる。象が日ノ本にやって来た享保年間は本年の大河ドラマ『べらぼう』よりも50年ほど前。これほど古い時代に象が日ノ本へやってきておることに驚く者も多いのではないか?と言うわけで此度は日ノ本の歴史と動物について話そうではないか!改め、前田利家の戦国がたり開幕である!!
皆々、息災であるか前田又左衛門利家である。2025年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、江戸幕府での政争や江戸の民の暮らしとともに、主人公・蔦屋重三郎殿の生業である出版の世界について描かれておるじゃろう。天下泰平の江戸時代はまさに民の文化が花開いた時代。現世ではそれこそドラマなるものやアニメなるものがその中心であろうが、我らの時代は書か能狂言から始まるいわゆる芝居が娯楽文化の中心であった。そしてこれは現世でも同じくだと思うが、娯楽にも流行があるわな。江戸時代でいえば、源義経様を描いた『勧進帳』や悲恋を描いた『曽根崎心中』、そして『忠臣蔵』である!『忠臣蔵』とは元禄15年(1702)に起きた赤穂浪士による討ち入り事件をもとにした題目である。『べらぼう』の時代より80年ほど昔の出来事じゃな。現世においても割と名が知られておると聞くが、江戸時代に書や芝居として流行ったがゆえに、さまざま脚色が強くなされておる。故に此度は、『忠臣蔵』ではなく「赤穂浪士討ち入り事件」について話をして参ろうではないか!
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。儂が治め築いた地、金沢から、我が生まれの地、尾張へと250kmの距離を五日間で歩き抜く「令和の北陸大返し」。中編となる此度は越前から美濃を目指し進軍して参るぞ!改め、いざ出陣である。