江戸城最初の刃傷事件、豊島信満事件

江戸城で最初に殺人事件が起こったのは寛永5年(1628)。

旗本・豊島信満殿が老中・井上正就(まさなり)殿を襲い、井上殿と止めに入った番の者が討死。信満殿も自刃した事件である。

事件を起こしたのは豊島信満殿。

豊島家は戦国中期には名族として関東で活躍した一族であるが、後期に権威を失い旗本として幕府に支えておった。じゃがその家格の高さから徳川殿の十男・頼宣殿と交流があったと伝わっておる。

そして襲われた井上正就殿は二代将軍・徳川秀忠殿の側近として大坂の陣にも参陣した戦国をよく知る武士である。

事件の原因は、豊島信満が仲人を務めた井上正就殿の嫡男の縁談を正就殿が反故にしたことであったようじゃ。

我らの時代、仲人を務めた縁談が破談になることは相当の不名誉であって、面目を潰された信満殿が怒り、ことに至った次第である。

誠ならば豊島一族が連座して処分されるはずの大事件であるが、戦国の世が終わってまだ十数年しか経っておらんかったこともあって、武士の意地を示した行いと評して信満殿の家が断絶するにとどまったそうじゃ。

ちなみに事件の原因となった縁談の中止についてなのじゃが、春日局(かすがのつぼね)殿が別の相手との縁組を求めたことで起きておる。

老中である井上正就殿としても三代将軍・徳川家光殿の乳母にして幕府屈指の実力者を相手に従わざるをえなかったとも言えよう。

勘違いが生んだ細川宗孝の悲劇

続いて紹介致すは江戸時代屈指の名門、細川家当主・宗孝殿が襲われ身罷った事件である。

襲ったのは板倉勝該(かつかね)なる旗本である。

しかもこれは、人違いであったのじゃ!

板倉勝該殿は板倉本家の当主・板倉勝清殿に恨みがあり、勝清殿を襲ったつもりが、人違いで細川宗孝殿を殺めてしもうたのじゃ。

板倉家の家紋「九曜巴紋」と細川家の家紋「九曜星(くようぼし)紋」を見間違えての出来事であった。

板倉家の家紋「九曜巴紋」。
板倉家の家紋「九曜巴紋」。
細川家の家紋「九曜星紋」。
細川家の家紋「九曜星紋」。

確かに板倉家の家紋は細川家の九曜星紋に巴の紋様が入っておるだけで、遠くからでは区別するのが難しくはあるのじゃが、

切られた側からすれば理由にはなるまい。

しかも斬られた細川宗孝殿は歳若く子がおらず、養子も立てておらんかった。

江戸時代は後継なしで藩主がなくなると改易の定めがあった。

諸大名の中で随一の家柄と教養を持ち、大藩として重要な立場にあった細川家の改易は、日ノ本にとっての大きな損失となるわな。

そんな窮地から細川家を救ったのが近くに居合わせた伊達宗村殿である。

襲撃された細川宗孝殿は伊達宗村殿が駆けつけた折にはすでに息を引き取っておったようじゃが、宗村殿は「まだ生きておるから、至急藩邸に運んで手当てせよ」と細川家臣に告げ、後継を定めて幕府に届け出た後に宗孝殿の死を伝えたことで改易を免れたと伝わっておる。

まさかの人違いで当主を殺された細川家は再び悲劇が起こらぬように、家紋の一部をかえ、さらに衣につける家紋を五つが一般的なところ、細川家は七つに増やして見間違われぬ工夫を施したのじゃ。

そして、恩のある伊達家のため、とあることを行ったのじゃ。

それが、赤穂浪士の墓の撤去である!!

前回の戦国がたりでも少し触れた、赤穂浪士を率いた大石内蔵助殿は事件の後に細川家に預けられ、切腹しておる。

細川家はこの赤穂浪士に敬意を示して赤穂浪士の墓や大石内蔵助殿が使った品が細川家に残しておったのじゃ。

じゃが、此度の事件で細川家を救った伊達家は、かつての赤穂藩主・浅野家と絶縁しておって、伊達家への義理を通すために浅野家家臣である赤穂浪士にまつわる者を処分したわけじゃな……。

自らの家が襲撃を受けたことで、襲撃した側の赤穂浪士と浅野家へ肯定的でいられなくなった、とも考えるのはいささか邪推であろうか。

因みに浅野家と伊達家の絶縁は戦国時代から続くもので、政宗が持つ豊臣政権への不満が取次役を務めた浅野家相手に爆発し絶縁状を叩きつけたことがきっかけである。

両家の和睦は江戸時代に幾度か試みられておる。

正徳2年(1712)には我が曾孫の前田綱紀と尾張藩主・徳川吉通殿らの説得で和睦が進められたのじゃが、家臣たちの反発によって実現せず、両家が和睦を果たすのはなんと1994年のことだそうじゃ。

終いに——前田家の刃傷沙汰について

さて、此度の戦国がたりはいかがであったか!

最後はかなり傍にそれたが、江戸城で起きた事件について紹介して参ったわな。

平和が続いた江戸時代とはいえ、名誉を第一とする武士の気風からしばしば斯様な事件は起こっておるのじゃ。

因みに江戸城内ではないが、江戸の地にて我が前田家も刃傷沙汰を起こしておる。

しかも相手は許されぬことに織田家である。

前田家加賀藩の分家・大聖寺藩の更に分家、新田大聖寺藩主・前田利昌(儂の曾孫)が織田秀親殿(信長様の弟君・有楽斎長益様の子孫)を寛永寺にて殺めたのじゃ。

かねてより折り合いが悪く、堪忍袋の尾が切れたようなのじゃが、儂が現世に蘇って一番血の気が引いたことである。

無論、新田大聖寺藩は取り潰しになるも、間も無く召し上げられた領地は大聖寺藩に返されたそうじゃ。

他にも堀田正俊暗殺事件や桜田門外ノ変など、数多事件はあるから、よくよく調べてみるがよい。

とそんな次第で此度の戦国がたりは以上といたそうかのう。

これよりもおもしろき戦国の話を伝えて参るでな!

次の話も楽しみに待っておるが良いぞ!!

それではまた会おう!

さらばじゃ!!

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)

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