東日本橋の名店『虎穴』の味をもっとたくさんの人に
カウンター6席、テーブルが10席分のこぢんまりとした店内。「店名は宮藤官九郎さん脚本のドラマからとったのですか?」とよく聞かれるらしいが、由来はまったく異なる。“タイガー”は東日本橋にある中華の名店『虎穴(フーシュエ)』の虎、そして“ドラゴン”はこの店を営む根本辰之(ねもとたつゆき)さんの名前からとった。
『Tiger&Dragon』のレシピは、ほとんどが『虎穴』の小松仁(こまつひとし)オーナーシェフのレシピを元に作られている。つまり行列ができる名店『虎穴』の味を、目黒でも気軽に食べられるようになったのは『Tiger&Dragon』のおかげということだ。
『Tiger&Dragon』店主の根本さんは、10年ほど前に『虎穴』で働いていた。小松シェフの味に魅せられてのことだ。
「最初に食べた小松シェフの料理は、麻婆豆腐でした。それまで食べていた麻婆豆腐とは全然違っていてガツンと衝撃を感じたんですよ。それから小松シェフの料理をいろいろ食べました。リーズナブルなものから高価格帯の料理まで、さっぱりしたものも、濃い味のものも、どれもすごくおいしく作る人なんです」
東日本橋の『虎穴』は、夜は中華のコースにワインを合わせる高級感ある店だが、ランチタイムは汁なし担々麺、担々麺、麻辣麺を提供。その味わいが評判でランチ営業開始前には必ず行列ができる。
根本さんは、20歳の頃から飲食店で経験を積んできたが、調理が専門だったわけではないし、実は独立志向が強かったわけでもない。ただ『虎穴』を離れ別の飲食店に勤めてからも、根本さんは「尊敬する料理人・小松シェフの味を、もっとたくさんの人に食べてもらいたい」とずっと考えていた。その気持ちに小松シェフが応えてくれて、さらに以前勤めていた会社の後押しもあって、『Tiger&Dragon』がスタートした。
看板メニューはもちろん、『虎穴』が多くの人に知られるきっかけになった汁なし担々麺だ。
香ばしさが徐々に出現。汁なし担々麺のソースは手強い辛さ
その汁なし担々麺をいただこうとお願いすると、「辛いの、大丈夫ですか?」と根本さん。「辛いものは好きなので、大丈夫です」と即答したところ、根本さんの目元がにやっとした気がした。
麺をゆでるところから盛り付けまで、決して広くないカウンターの中で調理は静かに進む。皿に敷かれた茶色いソースは、ゆっくりと大豆油で揚げたカシューナッツとゴマを何度もすりつぶしてペースト状にして、黒酢や醤油を加えたもの。そこに豆乳を垂らしてまろやかさをプラス。ゆでた麺をのせ、主に甜麺醤で味付けした豚ひき肉とニラをトッピングして、自家製のラー油を回しかける。
「しっかり混ぜてから食べてください」とカウンターの上に出来上がった汁なし担々麺が置かれる。「しっかり混ぜるとは?」と疑問に思い、特別に根本さんに手本を見せてもらうと、両手に持ったレンゲと箸で豪快に、麺の色が均一になるまで混ぜる、混ぜる。
クリーミーなソース、ラー油、肉味噌までしっかり絡んだ麺を口に入れると、確かに辛い! でも辛さに慣れてくると、口の中に香ばしさが広がり、肉味噌が持つ深みのある味わいや砕かれたカシューナッツの食感にも気づく。
1人前160gで量もしっかりした麺は『虎穴』と同じ足立区の製麺所『享屋(きょうや)』のもの。もっちりとした噛みごたえもあって満足感がある。原則、他の材料も『虎穴』と同じ。その中には手に入りにくい特別な材料はない。根本さんが惚れ込んだ、おいしさの秘密はどこにあるのか。
根本さんは「他の中華のシェフに、『虎穴』のレシピは、一般的なレシピに比べると3倍以上工程があると言われたことがあります」と話す。例えば、ソースは市販の練りゴマではなくゴマの粒から作る、ラー油の油はカシューナッツを揚げたものを使うなど。工程が多くて丁寧。そのひとつひとつが、味わい深い汁なし担々麺につながっているようだ。
細かな作業を厭(いと)わずに目指す、完コピな味わい
汁なし担々麺も他の料理も、『虎穴』の味を再現するには手間がかかる。「でもどの作業もやらなきゃ、あの味は出ないんですよ」と意欲をもって取り組んで、「これだったら大丈夫」と小松シェフからお墨付きをもらった。しかし「小松シェフの味を完璧にはコピーできていない。もっと近づきたい」と謙虚だ。いつかはお店を増やして、絶品の汁なし担々麺をもっとたくさんの人に味わってほしいとも考えている。
まずはランチで本格的な辛さと香ばしさが魅力の汁なし担々麺を味わってみてほしい。夜は、麺類のほかに、パクチーサラダ、じゃがいもを細切りにして山椒油で和えたポテトサラダ、ピータン豆腐、よだれ鶏などお酒に合う料理が充実。中華のおつまみとナチュラルワインでスタートして、汁なし担々麺で締める目黒の夜もよさそうだ。
取材・撮影・文=野崎さおり