中野区寄りの新宿区で育ち、新宿区寄りの中野区民になって6年の月日が経ちました。
新宿。
昨今ニュースで耳にする機会の多い、繁華な大都会の象徴みたいな街の名です。みなさんが思い浮かべるのは、どんな新宿でしょうか。今回は『東京さんぽ図鑑』のページを頭の中でめくりながら、区界の神田川沿い~西新宿の街を歩いてみることにします。
【橋】淀橋
ヨドバシ。明治時代には界隈の町名になり、昭和7年(1932)~1947年に新宿区ができるまでは区名でもあった、この街にかかわりの深い神田川に架かる橋の名前だ。この橋には、応永年間(1394~1428)のころ、中野長者といわれた鈴木九郎が屋敷に隠しきれなくなった財産を人を使って運ばせた際、手伝った人を殺し神田川に投げ込んだことから「姿見ずの橋」と呼ばれていたという言い伝えが。
不吉な名だからと3代将軍徳川家光が淀川に似ていることにちなんで「淀橋」に改めさせたなど、改名エピソードにも諸説あるが、人が消えても気づかれないような大昔の風景を想像してみると……どうだろう?
【町中華】登喜和
淀橋のたもと、「西新宿五丁目北地区防災街区整備事業」と掲げられた再開発エリアの向かいには、美しい食品サンプルが目をひく町中華が。まずは外観を観察! 緑の日よけテント、看板の力強い文字がまぶしい。手入れされたプランターに花が咲いている。サンプルケースには招き猫。開け放たれた扉の向こうで、近所の勤め人と思われる方々が思いおもいに食事中。
吸い込まれるように店に入りメニューを見ると、「チャンポン」を発見。『東京さんぽ図鑑』には「長崎ちゃんぽんが出てくる……とは限らない」とあるが、注文時に「どんなチャンポンですか?」なんて無粋な確認はしない。ドキドキしながら待つこと数分、やってきたのはこちら!
「すぐ丼の底がみえるようなケチケチしたことはしたくないからね! ごま油を最後に入れるのがポイントだよ」。店主の心意気も染みる優しい味だった。
【富士塚】成子富士
西新宿はもうずっと再開発の只中にあるが、街の変化を傍らで見つめてきたスポットに出合えるのはうれしい。ビルの谷間にある成子天神社、その境内の奥に突如現れる富士塚もそうだ。
この地にあった天神山という小山に大正9年(1920)、富士山の溶岩が運ばれてつくられたという成子富士。柏木・角筈(現在の北新宿、西新宿)の人たちを中心に構成された丸藤成子講は、最盛期には200人にものぼったという。
【昭和のビル】西新宿の高層ビル群
西新宿駅から南へ進むと、いつの間にか高層ビルに囲まれている。人通りの少ない都庁通りからは、新宿住友ビル(1974年竣工)、新宿三井ビルディング(1974年竣工)、新宿センタービル(1979年竣工)、京王プラザホテル(1971年竣工)などが見渡せる。高層ビル、というだけで新しいような気がしてしまうが、どのビルも40~50年の歴史を重ねているのだなぁ。
明治31年(1898)から昭和40年(1965)までこの地には淀橋浄水場があり、現在の道路は貯水池の高低差を生かして造られた。広大な敷地に水面が連なる風景を頭の中で重ねると、ぷかぷか浮いてる気分になる。
【暗渠】神田川支流(神田川笹塚支流/和泉川)
十二社通りから方南通りに入り、神田川のほうへ戻ってみようかなと歩いていると、いつの間にか新宿とは思えない渋い商店街に入り込んでいた。そして、現れたのは橋!
説明書きによると、この川は1963年、東京オリンピックの前年に暗渠となった。写真の柳橋は、昭和7年に架けられたもの。伊丹十三『タンポポ』(1985年公開)のロケ地となったり、はっぴいえんどのファーストアルバム(1970年)のジャケットに写る「ゆでめん 風間商店」のあった場所らしい。周囲にはコインランドリー、近くの羽衣橋のそばには銭湯『羽衣湯』。“暗渠サイン”もたくさんみつかる。
柳橋の周辺はあまりにも心引かれる風景で、しばらく様子を見ていた。橋のそばの青果店で、ご近所さんが買い物ついでにおしゃべりをしていく。かつての水路には、台車を引いた宅配業者がしばしば出入りする。
名残惜しくも橋を背にして暗渠を歩いていくと、神田川に合流。短い時間だったけれど、ぶあつい歴史の層を目の当たりにして、タイムトリップから現実に戻ってきた気分だ。都会のスキマであんな風景に出合える。これだから散歩はやめられない!
文・撮影=渡邉恵(編集部)