千早振る 神の恵みに かなひてぞ 今日み吉野の 花を見るかな
まずは儂の歌を紹介いたそうか。
この歌は吉野の花見にて開かれた連歌会にて詠んだ歌じゃ!
天気に恵まれて花見を楽しむことができるとそう歌っておるわな。
5日間にかけて行われた吉野の花見は初めの3日は雨で花見が叶わなかったのじゃが、吉野の僧の晴天祈願の甲斐あってか、残りの2日は見事に晴れてその喜びを歌った歌である。
朝廷に倣(なら)い茶会や連歌会を好んだ秀吉に付き合って儂も時折歌を詠んだものじゃ。
儂はさほど得意ではなかったが、細川忠興や蒲生氏郷をはじめ、歌を好み現世で評価されておる武士は少なくない。
故にこれよりは、様々な意味をもつ戦国の歌を三つ紹介いたそうではないか!
此度は戦国らしさ、これを主題に選んで参ったぞ!
勝頼と 名乗る武田の 甲斐も無く 戦に負けて 信濃なければ
まず紹介するのは、信長様が武田家を滅ぼした後にお詠みになったとされるものじゃ。
なんとなく読み取れると思うが色々な皮肉が込められておるわな。
“勝つ”頼の名前のくせに負けたこと、戦った甲斐がないことと武田の領地である甲斐を失ったこと、信濃を失ったことを“品の”ない(格好悪い)ことなどと、さまざまな意図を込めた歌じゃ。
強敵に勝利した喜びを上手く言葉に掛けて洒落(しゃれ)も効いておる。
こういった意気軒昂な勇ましい内容も武士らしい良い歌であろう。
……とは思うのじゃが、信長様に限れば武田勝頼殿を強敵として認められておって、敵ながら敬意を払われていたで、このような揶揄するような歌を歌われることは、儂にとっては少しばかり違和感がある。
実質、天下統一を決定づけたとも言える武田家の滅亡によって、これまでの長く苦しかった足跡を振り返り昂ったからなのか、あるいは後に創作されたものなのかとも考えておる。
この歌が記されておる『当代記』は江戸時代になって少し時間が経った寛永期にできたものと聞いておるで、徳川殿の思惑のこもった脚色やもしれんと儂は勝手ににらんでおるぞ!
夏衣 きつつなれにし 身なれども 別るる秋の 程ぞ物憂き
続いて文化人としても評価の高い伊達政宗の歌である。
政宗は我が戦国がたりでも度々出て参るわな。
儂としては色々と手のかかる政宗の話をするのは気が進まないのじゃが、残したおもしろき話が多いで致し方あるまい。
この歌の意味は「夏の衣はもう着慣れておるけれど、秋になって着なくなると思うと悲しく思うものだ」といったものじゃな。
これは政宗の家臣、原田宗時殿が若くして亡くなったことに悲しんだ政宗が、普段は当たり前に思っておった存在じゃが、失ってしまうとひどく悲しいと心情を吐露した句である。
我らの時代には自らの死以上に家臣や主君、同輩の死に向き合わねばならんかった。故に残された側からの別れの歌にも我らの死生観が詰まっておるのじゃ。
政宗は宗時殿へこの句の他にも
「虫の音は 涙もよほす 夕ま暮れ さびしき床の 起伏しも憂し」
「あはれげに 思ふにつれぬ 世のならひ 馴れにし友の わかれもぞする」
「見るからに 猶あはれそふ 筆のあと 今日よりのちの 片見ならまし」
「たれとても 終には行かん 道なれど 先たつ人の 身ぞあはれなる」
「ふき払う 嵐にもろき 萩の花 誰しも今や 惜しまざらめや」
と計六首を残しておって、それぞれの一文字目を辿ると
な つごろも
む しのねは
あ はれげに
み るからに
た れとても
ふ きはらう
南無阿弥陀仏と宗時殿への弔いの思いもこもっておるのじゃ。
ときは今 あめが下知る 五月かな
最後に紹介するのは、戦国に興味がある者は一度は聞いたことがあるであろうこの歌である。
俳句や短歌の知名度で番付を作ったらかなり上位に来る歌ではないかのう。
言わずもがなやもしれぬが、この歌は明智光秀殿が信長様へ謀反を起こす決意を示す歌といわれておる。
5月の末に愛宕山にて催された連歌会にて詠んだこの歌は、まっすぐ受け止めるなら「今は雨の多い5月です」と平々凡々に聞こえるが様々な意味がこもっておるといえよう。
「とき」とは光秀殿が起源を主張しておった土岐家のことを、「あめ」は天の事を示して、「土岐家である光秀殿が天下をとる時」とそのように解釈できる。
故に信長様への謀反を宣言した句と言えるわけじゃ。
短歌には一つの言の葉に幾つかの意味を持たせる、掛詞がよく用いられた。
この歌はその代表例であろう。
じゃが、ここまでは少し歴史に興味がある者にとってはよく知る話。
ここからはこれに対する返しの句を紹介いたそう。
先ずは西坊行祐殿が詠んだ「水上まさる 庭の夏山」、これは水音が大きい庭園の夏の山という意味の歌じゃが、「水は勢いを増して山を越えていく」と光秀殿の背中を押すような意味にもとらえられる。
そして重要なのは次に里村紹巴殿が詠んだ「花落つる 池の流れを せきとめて」である。
花落つるは首が落ちること示し、池の流れを織田家の勢いに例えて「信長様の首を取って織田家の勢いを止める時」と光秀殿に賛同した歌にとらえられる。
他にも池の流れは朝廷を意味して信長様が朝廷を軽んじている、即ち「池の流れをせき止めて」いるから花が落ちる(討死される)と謀反の正当性を主張し、光秀殿への賛同を示しておるとも理解できるわな。
じゃが!
この歌は謀反への反対を込めたものであると対極的な見方もできるのじゃ!
この歌を池の流れを堰き止めて花がおつると読めば、謀反をしたことで光秀殿の首が落ちるという意にも見えて、謀反はうまくいかないと光秀殿を諌めるための歌にも見えるわな。
さらには雨で句を詠んだ光秀殿に対して、池の水をせき止めてと返しておるということは「無為な犠牲が出るから池の水(謀反の計画)を止めたい」とも解釈ができてしまうわけなんじゃ。
果たして里村紹巴殿の真意はどこにあるのか、今となっては当人のみぞ、である。
元々この一連の歌は細かいところが書物によって異なっておって、光秀殿が山崎の合戦で討たれたのちに謀反に加担したと思われぬように愛宕山連歌会の参加者が改竄(かいざん)したとか、あるいは光秀殿の謀反を色濃く演出したかった秀吉の手で脚色されたとか、様々な経緯と思惑の入り混じるものだで真相は闇の中じゃ。
日ノ本随一の謎である本能寺の真相がこの一つの歌に見え隠れしておるわな。
じゃが、一つの歌でここまでの深い考察ができるのは誠に興味深いことである。
終いに
此度は戦国の三つの歌を紹介致したが、如何であったか?
辞世の句以外にも良き歌があると伝わればうれしく思う。
令和6年の大河ドラマ『光る君へ』は平安文化を描いておったで歌に興味を持った者もいるのではないか?
そういった者たちはこの後も百人一首や武士の辞世の句なんかを入り口にして様々な歌に触れていってほしいのう。
そして来年の大河は江戸時代の文化を描くそうじゃ。
戦が中心となる戦国や幕末の大河とは異なる、新たな日本の歴史の魅力について触れる絶好の機会でもある。
来年の大河ドラマも楽しみにしておくが良い!
それでは此度の戦国がたりはこの辺りと致すかのう。
また会おう、さらばじゃ!!
文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)