illust_5.svg

旅行当日の朝は土砂降りだった。前々日から我が家に来ていた母と一緒に、バスと電車で八王子駅を目指す。バス停に着くまでの間に靴下がびしょびしょになってしまい、母と何度も「今日に限って!」と言い合った。

旅の行き先は浅間温泉。母が「松本と安曇野に行ってみたい」と言うので、宿を探して予約した。私は北アルプスの山小屋で10年間働いていたこともあって、松本と安曇野には土地勘がある。浅間温泉に一泊して、翌日は松本と安曇野を観光する予定だ。

八王子駅から、予約していたあずさに乗車した。母は「あずさ2号?」と聞いてきたが、残念ながら2号ではない。座席を探しながら、「8時ちょうどのあずさ2号で恋人から旅立つ人が八王子から乗車してたらなんかウケるな」と思った。午前中のあずさはビジネスマンと登山客で埋まっている。

山梨県に近づくと雨は止んで曇り空になり、長野県に入る頃にはすっかり晴れた。車窓から見える景色は、大きな深緑色の山々に囲まれている。

「ほら、山深くなってきたでしょう」

私にとっては見慣れた景色だが、母は信州に来るのが初めてだ。日本アルプスの山々を見るのも初めてだろう。

「すごいわねぇ。ママ、こんな大きな山初めて見たわ」

母の一人称は「ママ」だ。私が母をそう呼んでいたのは何歳までだろう。兄も姉も私も、ある程度大きくなったら呼び方を「お母さん」に改めたのだが、両親だけがいまだに「ママ」「パパ」と呼び合っている。

「手稲山すら登ったことのない23歳のサキちゃんが、ひとりでこんな山に行ったのねぇ」

母は山を見つめ、感慨深そうにしている。手稲山とは札幌にある1000mちょっとの山だ。母が言う通り、私は手稲山すら登ったことがない登山未経験の状態で北アルプスの山小屋にバイトをしに行った。今思えばけっこうな度胸だ。若かったからできたのだと思う。

illust_2.svg

昼の1時には松本駅に到着した。松本は清々しく晴れていて、一年で今日がもっとも過ごしやすいんじゃないかと思えるくらい爽やかな気候だった。

コンビニで缶チューハイを買い、路線バスに乗って浅間温泉へ行く。住宅地にいきなり温泉街が出現して驚いた。あまりに住宅地と近いため、温泉街なのに近所の幼稚園のスピーカーから運動会の放送が聞こえる(平日だからリハーサルだろうか?)。

旅館は古いけれどきれいだ。ベッドではなく布団の部屋で、トイレはついているがバスルームはない。なかなか見かけない古い鏡台が置かれ、窓辺にはよくあるガラスのテーブルと籐椅子が置かれていた。

「こんな昔ながらの旅館に泊まれる機会はそうそうないわよ!」

母はウキウキした様子で、さっそく札幌で留守番をしている父に電話をかけて宿の様子を報告していた。

2人で宿の周辺を散策し、旅館の前で女将さんにツーショットを撮ってもらう。私は最近、意識的に両親との写真を撮るようにしている。2年前に元夫の父が亡くなったことで、親の残り時間が有限であることに気づいたからだ。

夕方に温泉に行くと、私たち以外は誰もいなくて貸し切り状態だった。小さいながらも清潔で、居心地のいい温泉だ。ボディソープで体を洗っていると、母が背中を洗ってくれて照れくさい。私も母の背中を流そうとしたが、「もう洗ったから」と断られた。

illust_1.svg

夕食は部屋食だ。旅館の部屋食というものに憧れがあり、わざわざ部屋食の旅館を探したのだ。

アルバイトらしい女の子が、料理がたくさん入ったお盆を抱えて部屋に入ってきて、テーブルの上にお皿をみっちりと並べてくれる。海のない長野県だがお刺し身もあった。「おなかいっぱいになりそうだな」と思っていたら、さらに温かい焼き物や揚げ物が運ばれてきた。メインは信州牛のステーキだ。

母と2人、瓶のビールで乾杯した。おいしい料理を堪能しながら、家族の話や亡くなった愛犬の話、思い出話などをする。基本的にはしんみりする話よりも楽しい話が多かった。

やがて、私の幼少期の話になった。

「ママはサキちゃんを愛情たっぷりに育てたつもりだったんだけど、きっとサキちゃんには足りなかったのね。サキちゃんはもっとかわいがられたり、褒められたりしたかったんだろうね」

どうだろう。たしかに、子供の頃は母から愛されているという実感を持てなかった。

誤解のないように言っておくと、母は決して毒親ではない。私は基本的には、愛情深く誠実に育てられた。しかし、私の幼少期、母はときたま大きな音を立ててドアを閉めたり、私が話しかけても怖い顔をして無視したりすることがあった。当時の母は足の悪い祖父を自宅で介護していたせいで、精神的にいっぱいいっぱいだったのだ。だけど子供の私は事情をわかっていないので、「ママは私のせいで怒っているのかもしれない」と思い、ビクビクと母の顔色をうかがって過ごした。「ママに嫌われたらどうしよう」と、いつも不安だった。

そのせいか私は自己肯定感が低く、友人関係においても相手の顔色をうかがってへらへらと話を合わせる子だった。そのせいで舐められたり、イジられたりすることも多かった。

中二のとき、仲良しグループから仲間外れにされて、そのはずみでクラス中から無視された。学校に行けなくなってしまった私はありのままを母に話したのだが、母は私の不登校を受け入れなかった。なんとかして私を学校に行かせようと躍起になるばかりで、いじめられた私を慈しむことも、いじめっ子たちを悪く言うこともない。

私は「あなたは悪くない」と言ってほしかったし、「かわいそうに」と抱きしめてほしかった。しかし母は、「そもそも仲間外れにするような意地悪な子たちと仲良くしていたのは人を見る目がないから」「学校は勉強するところなんだから、友達なんていなくてもいいでしょう。仲良しグループに属していないと学校に行けないなんて情けない」と突き放した。

私は不登校をきっかけに心を病み、メンタルクリニックに通うようになった。私はうつ状態に陥るたび、母を恨んだ。私が心を病んだのは、子供の頃からビクビクと母の機嫌をうかがって生きてきたせいだ。不登校になった私を、母が受け入れてくれなかったせいだ。たとえ不登校になっても、母が受け入れてくれていれば心を病むことはなかったんじゃないか。そんなふうに、上手くいかない理由を母のせいにした。

私は自分でも自分の気持ちがよくわからなかった。心を病んだ理由を母に押し付けているわりに、母のことを嫌いにはなれない。嫌いどころか母のことは大好きで、幼少期から一貫して、きれいで聡明な自慢のママだと思っている。だからこそ愛されたい。でも、憎い。自分でも自分の気持ちがよくわからない。

そんな複雑な感情を抱きつつも、私と母は一見すると仲のいい親子だった。私は母にべったりで、親友のようになんでも喋っていた。精神的に自立できず、母と距離を置きたいと思いつつ、母に依存することをやめられなかったのだ。母もまた、不安定な私に干渉していた。

通信制高校を卒業して進学のために上京してからも、しょっちゅう母に電話をした。うつ状態になって泣きながら助けを求めたこともたくさんあった。それでも、実家に戻りたいとは思わなかった。母に助けを求めてしまうのに、母の監視下にいるのは嫌なのだ。

だけど新卒で入社した会社が合わなくてボロボロになったとき、母に「会社を辞めるなら実家に戻ってきなさい。実家に戻らないなら会社を辞めちゃダメ」と言われ、逆らえずに従った。私は会社を辞めて実家に戻り、ふたたび母と暮らすことになった。

そうして1年ほど実家で暮らしてから突然、北アルプスの山小屋へ住み込みのアルバイトに行った。行き先は告げていたが、気持ちとしては家出だった。アルバイトでもらったお金でどこかに部屋を借り、実家にはもう戻らないつもりだった。

私にとって北アルプスは人生を変えてくれた場所で、母にとっての北アルプスは、娘が自分の手から離れて逃げ込んだ場所なのだった。そんな北アルプスの麓の街に、今母といる。

illust_5.svg

ごちそうですっかりおなかがいっぱいになった。私は少し残してしまったけれど、ふだん少食なはずの母は完食していた。

母が窓を開けて、夜空を見上げる。私も見てみた。松本は都会なので、星は数えるほどしか見えない。北アルプスで毎晩のように満天の星を見ていた私からすると、星空のうちにも入らなかった。

けれど母は「札幌よりも星がくっきり見える!」と喜んでいた。星が瞬くたびに、「すごい、チカチカしてるね」とはしゃいだ声を上げる。この程度の星で喜んでくれる母に、山の星空を見せてあげたい。

「山の星空はもっとすごいよ。北斗七星がくっきり柄杓の形に見えるよ」

「そう。サキちゃんはママが見たことないものをたくさん見てきてるね」

それはそうだろう。私は母の世界から抜け出したくて、遠くに行ったのだから。

食べ終わったらフロントに連絡するよう言われていたので、フロントに電話をかけたら、バイトの女の子が食器を下げにきた。すぐに大学生くらいの男の子が来て布団を敷いてくれる。その後、また別の女の子がデザートを持ってきてくれたが、テーブルが片付けられているので窓際の小さなガラステーブルで食べた。この順序で合っているのか。布団の子、フライングしてないか。

時計を見るとまだ8時だった。

母はおやすみも言わず布団に入り、あっという間に寝息が聞こえてきた。私は隣の布団でYouTubeを見て時間を潰し、10時からAぇ! groupのラジオを聴いているうちにいつの間にか眠っていた。

文=吉玉サキ(@saki_yoshidama

方向音痴
『方向音痴って、なおるんですか?』
方向音痴の克服を目指して悪戦苦闘! 迷わないためのコツを伝授してもらったり、地図の読み方を学んでみたり、地形に注目する楽しさを教わったり、地名を起点に街を紐解いてみたり……教わって、歩いて、考える、試行錯誤の軌跡を綴るエッセイ。
今まで、新橋について書くのを避けてきた。思い出すのも嫌だったからだ。
この歳になってもなお、一生ものの思い出は増える。2024年6月16日、静岡の『エコパアリーナ』へAぇ! groupのライブを観に行った。一緒に行ったのは、さとうさんという東京在住の同世代の女性だ。3月のAぇ!のイベントに私が当選した際、SNSで同行者を募集したところ、DMをくれたのがさとうさんだった。そのイベントで初めて会ったのだが、とても面白い方で意気投合し、4月には恵比寿で昼飲みをした。この歳になっても新しい友達ができるんだなぁ、とうれしく思う。
義父が亡くなった。85歳だった。大腸を患って入院してから3週間後、手術をしてからは2週間後のことだ。それほど長患いをしたわけでも、突然だったわけでもない。ここ2年ほど、義父には認知症の症状がみられた。最後に会ったのは今年のお正月だが、そのとき義父は、私が誰かわからなかった。誰かわからないなりに、私が話しかけると「どうもどうも!」「元気でなにより!」と元気に応えてくれた。認知症になる前から天然で、やや会話が噛み合わないところのある人だった。このときの義父は、一日中『青い山脈』や『銀座カンカン娘』などの昭和歌謡をごきげんで歌っていた。そんな義父を見て、義母・夫・義弟は「お父さん、よく歌うねぇ」と笑った。認知症の老人が一日中大きな声で歌っていれば、家庭によっては嫌な顔をする人もいるだろうが、夫の家族はみんなニコニコしていた。しかし、彼らがもともと仲のいい家族かといえばそうでもない。夫は高校卒業と同時に実家を出てからはあまり帰省していなかったし、親との連絡も頻繁ではなかった。けっして仲が悪いわけではないが、精神的にも物理的にも距離のある家族だったと思う。そんな夫も、私と結婚してからは年に1度は実家に顔を出すようになった。そしてこの1年4ヶ月は、実家で父親の介護に専念した。私は正直、淡白な夫が父親に対してここまで親身になることが意外だった。最期の時間を息子と過ごせて、義父は幸せだったろうか。義父はもともと何を考えているかわかりにくい上に認知症だったので、晩年をどんな気持ちで過ごしていたのか、誰にもわからない。ただ、少なくとも私には、晩年の義父は幸せそうに見えた。