『百人一首』に収録された清少納言の和歌と行成

何を隠そう、行成は、清少納言と仲が良かったらしい。

たとえば『百人一首』に収録されている、清少納言の和歌。これが実は行成に対して詠んだ歌であることをご存じだろうか。

ある晩、行成と清少納言が雑談していたら夜も更けてしまった。そして行成は「明日は夜通し帝のそばに宿直しなければならない日だから、今日は早く帰らないと」と帰ってしまった。

その翌朝、行成から「昨日は早く帰ってごめん」という手紙が来た。

〈現代語訳〉

「今日になって、心残りがすごい。ほんとは夜通し昔の話でもしてたかったのだけど、鶏の声が聴こえたから、『やばいもうそんな時間?』と急かされてしまった」

と、行成さまから丁重なお詫びの手紙がやってきた。すばらしい!

私は返事を書いた。

「鶏の声がいつもより早い時間帯に鳴いていた、ってことですよね? それって中国の『史記』の孟嘗君の話と同じく、鳴き真似だったのでは?」

するとすぐに返事が来た。

「そうだなあ、孟嘗君の場合は、“函谷関(かんこくかん)”をはやめに開くために鶏の鳴き真似をして、三千の食客とともに逃げた、ということだったけれど。

私が開きたいのは、どちらかというと、“逢坂の関”のほうだな」

これに、私は返事を返した。

「夜がまだ明けてないのに、鶏の鳴き真似でごまかそうとする人は……この逢坂の関を開かせませんよ

うちにはしっかり関を守る人がいますからね」

これに対し、行成さまは返歌を送ってきた。

「逢坂は越えやすい関らしいし、鶏が鳴かなくても門は開いてるって聞きましたよ?」

 

〈原文〉

「今日は、残り多かるここちなむする。夜を通して昔物語も聞え明さむとせしを、鶏の声にもよほされてなむ」と、いみじう言多く書きたまへる、いとめでたし。御返りに、(清少)「いと夜深くはべりける鶏の声は、孟嘗君のにや」と聞えたれば、立ち返り、(行成)「孟嘗君の鶏は、函谷関をひらきて、三千の客わづかに去れり、とあれども、これは、逢坂の関なり」とあれば、 

(清少)「夜をこめて鶏の虚者ははかるともよに逢坂の関は許さじ 心かしこき関守はべり」と、聞ゆ。また立ち返り、

(行成)「逢坂は人越え易き関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか」 

(原文は『新版 枕草子』角川ソフィア文庫より引用、現代語訳は筆者による)

教養ある者同士のおしゃれなやりとり

なんとも際どいやり取りである。孟嘗君(もうしょうくん)の鶏の鳴き真似の話は、故事成語の「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」でも知られている通り、捕えられた孟嘗君が鶏の鳴き真似によって逃れたというエピソード。しかし今回は、行成がはやめに帰った(要は泊まらなかった)言い訳として、「鶏が鳴いたからもう朝が来たのかと思ってあわてて帰った」と言う。

この時代の男性は女性の部屋で完全に太陽が昇るのを見るのはマナー違反で、できるだけ明け方のうちに帰るべきだったのだ。つまり鶏がコケコッコーと鳴いたらそれはもう帰る合図。……が、実際は別に鶏は鳴いておらず、行成がはやく帰った言い訳として「いやーなんか鶏の声が聴こえたからさあ」と言ったにすぎない。

これに対して清少納言は、分かった上で「ふうん、それって孟嘗君のエピソードにあるような、嘘鳴きじゃない?」と返事をする。もちろんこれは『史記』を記憶してないと意味がわからない。おしゃれなやりとりだ。そして教養のある行成はもちろん、ぴんとくる。

「同じ関でも、逢坂の関の方が越えたいな」と行成は述べる。……逢坂の関といえば、「会う」という言葉が和歌でよく掛けられがちな場所。当時は逢坂の関を越える、といえば、恋人が「会う」(つまり寝る)という意味だった。

これを分かったうえで、清少納言は和歌で「ふん、鶏の鳴き真似したってこっちの関は越えさせない、会わないわよ」と返す。行成も行成で、「ええー、そんな、清少納言さんは夫と離婚したらしいし、意外と誘ったら会ってくれるって聞いたけど⁉」と口説こうとする。そんなやりとりなのだ。

逢坂山関址(滋賀県大津市)。
逢坂山関址(滋賀県大津市)。

京都の藤原行成ゆかりの地

これだけ読むと、なんとも恋愛的やりとりで、2人は付き合っていたのかな? と思うかもしれない。しかし実はなんとこの後、行成は清少納言の和歌をみんなで回し読みした、と言うのだ。

それを知った清少納言は「えっ、もしかしてあなた本当に私に対して好意持ってくれてたの? だって自分の好きな人からもらった素敵な和歌なら、みんなに知ってもらって、和歌の腕前を褒めてもらいたいものね!」と返す。これに対して行成は「普通の女性なら『みんなでまわし読みなんて、なんてことをしてくれたんだ!』と言うだろうに、あなたはやっぱり普通じゃないなあ」と笑ったという。これもすべて『枕草子』に描かれている話だ。

……こういうやりとりを見ていると、まあ、お遊びで恋人あるいは口説き文句のようなやりとりを和歌でしていたのかなと分かってくる。なんとも高度なコミュニケーションだなあと思う。

藤原行成も清少納言も、教養があるからこそ、お互いの和歌を楽しんだのだろう。平安時代の貴族たちの教養がよく分かるエピソードだ。

ちなみに京都の石清水八幡宮の鳥居には、いまも藤原行成が書いた「八幡宮」の筆跡を書き写したものが使われている。石清水八幡宮に遊びに行った際は、どの鳥居が行成の書を掲げているか、ぜひ探してみてほしい。

石清水八幡宮(京都府八幡市)。
石清水八幡宮(京都府八幡市)。

文=三宅香帆 写真=PhotoAC

「推し」という言葉が流行して以来、「そういえばあの古典文学に描かれていた関係性も、いわゆる『推し』というものだったのではないかしら」と思うことが増えた。その筆頭が、『枕草子』である。
『枕草子』といえば、「春はあけぼの」から始まる情緒的なエッセイであると思われがち。だが実は自分の仕えるお姫様・藤原定子とのエピソードがたくさん描かれている。藤原定子は、藤原道隆の娘であり、一条天皇の妻(中宮の地位)であった。彼女は清少納言がお気に入りの女房だったようで、『枕草子』には藤原定子と清少納言の仲睦(むつ)まじい様子が綴られている。
紫式部と並び、平安時代の優れた書き手として知られるのが、清少納言。言わずと知れた『枕草子』の作者である。『枕草子』といえば、「春はあけぼの」といったような、季節に関する描写を思い出す人もいるだろう。が、実は清少納言が自分の人間関係や宮中でのエピソードを綴っている部分もたくさんあるのだ。そのなかのひとつに、大河ドラマ『光る君へ』にも登場する藤原公任(きんとう)とのエピソードがある。今回はそれを紹介したい。
宇治は、平安時代の浄土文化を伝える平等院で知られ、日本最古の神社建築といわれる宇治上(うじかみ)神社とともに、世界文化遺産「古都京都の文化財」に登録された2社寺を有する歴史と文化のまち。産業としては宇治茶が有名で、JR宇治駅から平等院に向かう商店街には老舗専門店が軒を連ねる。近年ではお茶スイーツを提供する新進の店も増え、街に活気がある。そして今、注目を集めているのが2024年の大河ドラマ『光る君へ』。『源氏物語』の作者・紫式部を描いたドラマだが、全54帖のうち最後の10帖が「宇治十帖」と呼ばれ、宇治が舞台になっていることから来訪者の増加が期待されている。
バスを降りると真っ先に朱塗りの大鳥居が目に留まる。平安神宮を中心にしたこの一帯は、神宮道と呼ばれる道の両側に美術館や動物園、図書館などがあり、文化的な要素も色濃い。琵琶湖疏水に沿うように歩くと蹴上(けあげ)インクラインへ到着する。約90本の桜並木があり、春には線路跡を美しく彩る。南禅寺塔頭の金地院(こんちいん)や天授庵(てんじゅあん)などを拝観しながら南禅寺へ向かう。境内の一角には、明治時代の水路橋であるレンガ造りの水路閣が残り、和洋混在の不思議な景観を見せてくれる。永観堂は京都屈指の紅葉の名所。本堂に安置される阿弥陀如来立像は珍しい振り向いた姿で、みかえり阿弥陀と呼ばれる。【『散歩の達人 歩きニストのための京都散歩地図』より】