色褪せた暖簾(のれん)は掛かっているが、店先の看板は点け忘れたのだろう、シン……と静まり返っている。入りづらい……そもそも営業しているのだろうか……今日のところは、一旦引き上げようか。いや、ここまで来てそれはないだろう……などと、その圧倒的な外観に、未だ尻込みをしてしまうことがある。

いざ、勇気を出して中へ入ってみると、小さな店内には数名の常連客。テーブルでは年配の男性客がテレビの相撲を観ながら静かに酒を飲んでいる。カウンターの客は、店の大将と談笑している。無表情の女将さんが私に気が付き、一瞬、間をおいてから「……カウンターへどうぞ」と言って席に座らせる。

はじめて訪れる古い大衆酒場ではよくあるこんな空気にスッとなじめる肝っ玉の持ち主は、そうそういないだろう。理想的なことを言えば、「遊びに来た」ような気軽さで酒場を訪れたいが、なかなか、難しいのである。

そんなある夜、中央線沿線の荻窪を訪れた時のこと。

ラーメンと文豪の街・荻窪で見つけた老舗酒場

闇市だった頃の雰囲気を一画に残す荻窪北口駅前通商店街。
闇市だった頃の雰囲気を一画に残す荻窪北口駅前通商店街。

久しぶりに荻窪で一杯やりたいなとやって来たが、行こうと思っていた酒場にことごとくフラれる。この際、ラーメンでも食べて帰ろうなどと思いつつプラプラと歩いていると……おや?

『鴻金』の外観。
『鴻金』の外観。

立派な赤提灯、置き看板、外壁、そして暖簾……そのどれにも「鴻金」と大書されており、誰がどう見たってここが『鴻金』という酒場であると分かる、目立ちたがり屋の外観。問題は「鴻金」は何と読むのかが分からないことではあるが、いや、これは随分とそそられるじゃないか。

店先は「鴻金」の主張が強め。
店先は「鴻金」の主張が強め。

建物自体はわりと新しいが、暖簾を見ればその歴史が分かる。少々長めのウグイス色の暖簾に、どことなく“玄人感”を感じる……これは“明るい雰囲気だけど入りづらい”という稀なタイプである。

破れ具合が老舗感を醸し出す赤提灯。
破れ具合が老舗感を醸し出す赤提灯。

灯りはあるが、中の様子が外からでは分からない。長年のカンからすると、この荻窪で長らく営業をしており、客は常連ばかり。寡黙だが腕の確かな大将と鉄火肌の女将さんが店を回し、そこに一見客の入る隙間などはない……そんなカンを働かせていると、なかなか入る勇気が出てこない。

立派な長暖簾の先には一体……。
立派な長暖簾の先には一体……。

それでも、やはり気になり、思い切って長暖簾を引いて中へと入ってみた。

 

「はーい、いらっしゃーい!」

明るい店内は、渋さを留めつつピカピカできれいだ。
明るい店内は、渋さを留めつつピカピカできれいだ。

元気な女将さんの声と共に、そこには“ちょうどいい”雰囲気の店内が広がっていた。団体客用の大きなテーブル、ネタケース付きのカウンター、片方の壁には木製の品札が並び、落ち着いた和風照明がすでに居心地のよさを演出している。

お子さま客のためのおもちゃとお菓子コーナーがホッとする。
お子さま客のためのおもちゃとお菓子コーナーがホッとする。

幸運なことに(?)客は常連らしきマダムひとりのみだ。目立たぬように、カウンターの端に座り、まずは酒場のお作法。女将さんに酒を頼む。

一見客の私が突然「日本酒のいいところを!」などと言えない。はじめての酒場では瓶ビールに限るのだ。

一見客であることの緊張を酒で流し込む筆者。
一見客であることの緊張を酒で流し込む筆者。

グビッ……グビッ……グビッ……、小グラスに注いだ麦汁がみるみるうちになくなる。この一杯がはじめての酒場の緊張を和らげてくれるのである。

焼き鳥のおいしさに名店だと確信。牛カルビもたまらない!

奥にタレの鳥皮、豚レバ、手前が地鶏ひなどりとつくね。
奥にタレの鳥皮、豚レバ、手前が地鶏ひなどりとつくね。

そこへ同時に頼んでいた焼き鳥、地鶏ひなどり、つくね、鳥皮、豚レバの面々が熱々のうちにやってきた。

鳥皮とレバ。タレはちょうどいい甘さと辛さ。
鳥皮とレバ。タレはちょうどいい甘さと辛さ。

タレの鳥皮と豚レバの見事な照りったらない。鳥皮はちょうどよく表面がカリカリに仕上がり、上品な脂がスッと喉に落ちる。ボリューミーな豚レバは、サクッとした歯触りとレバ特有のギュッとした旨味がたまらない。

女将さんイチオシのつくねの塩と地鶏ひなどり。
女将さんイチオシのつくねの塩と地鶏ひなどり。

「ウチのつくねは、自動的に塩なの!」という女将さんの宣告通り、焦げ目の鮮やかなつくねは、ムッチリと肉々しい食感が素晴らしい。そして焼き鳥屋の顔とも言える地鶏ひなどりは、引き締まった身からたっぷりの肉汁があふれる一品。ああ、私は今間違いなく、焼き鳥をおいしくいただいていると実感する。

「ちょっと待って! ごめんね、ワンオペだからさ!」

焼き鳥のおいしさに名店だと確信した私は、いっちょ前に料理を追加……まさしく鉄火肌の女将さんの大きな声に一瞬怯んだが、なんだか心地いい。もちろん、いつまでも待ちますとも!

「ゆっくり飲(や)ってもらうと助かるんだけどね、あはは!」

そう言って目の前に出されたのがイカワタルイベだ。メニューにあったら必ず頼む、私の大好物である。イカの軟骨がコリコリと小気味よく、次第に口になじんでいくとワタのほろ苦い旨味が、じんわりと口中を駆け巡る。やはり、旨い。

チビチビと酒を楽しんでいると、ひとりの女性客が入ってきた。

「あとね、3人来るから」
「ええっ!? 連絡ないじゃーん、予定が狂っちゃうよ!」

どうやらこの日は女将さんひとりで店をまわす予定だったらしいのだが、次々に客が入ってきたのだ。女将さんは苦笑いをしつつ、

「まさか、こんなにお客さんが来るなんて……ねぇ?」
「すごい繁盛してますね」
「なんで今日に限ってこんなに……表の電気、消そうかな?」
「いやぁ、それでも飲ん兵衛なら入ってきますよ?」

冗談めいて、なぜか毎回私に話を投げかけてくれる女将さん。私もそれに笑顔で応えるのだ。気がつけば、常連客でいっぱいの店内。普段であれば、いづらくなってしまうのだが、ここはなんだか違う。なんなら、もっと客であふれて盛り上がってほしい、とさえ思えてきたから不思議だ。

じっくりと待っていた和牛カルビ焼がやってきた。なんと「待たせたから一枚おまけね!」といただいたのは、いかにも高級肉感があふれる和牛が6枚。

一緒に小皿のタレを渡しながら、「塩コショウを振ってるけど、このタレつけてみて!」というので、その通りにいただくと、これが旨いのなんの! 醤油とごま油とにんにくを合わせたタレなのだが、ミルキィで柔らかく、肉汁たっぷりの和牛に、このサッパリとしたタレが絶妙な組み合わせだ。

「和牛カルビの味、どう?」
「めっちゃ旨いです!」
「待ったかいあった? あはは!」

すごく忙しそうにしながらも、やはり何度も私に話しかけてくれる女将さん。……もしかして、私に好意があるのかしら? なんて、勘違いさえしてしまう親しみやすさだ。

『♪チャ~~~~、チャラララララ~……』

突然、「男はつらいよ」のテーマソングが店内に流れる。その音の元は、女将さんのスマホの着信音。電話に出た女将さんは、電話の向こうに「事の顛末」を話し始める。

「よかった、タクシーで来てくれるって!」

改めて店内を見渡すと、いつの間にか満席状態。実は自宅で休んでいた旦那さん(店の大将)に、応援のお願いをしていたらしい。「着替えてからだから40分くらい? ウチの旦那見ていってよ!」と女将さんが言うので、残った酒をチビチビと「時間稼ぎ」しながら飲むことに。

はじめにいた常連のマダム客は、当たり前のごとく他の客の配膳などを手伝っている。私も手伝わないといけない雰囲気ではあるが、所詮「一見客」の私にはその度胸などない。

一見入りづらいけど、また遊びに行きたくなる店

カウンター席の目の前に飾ってあった大将と女将さんの似顔絵が微笑ましい。
カウンター席の目の前に飾ってあった大将と女将さんの似顔絵が微笑ましい。

こんなにも働き者の女将さんは、さらに昼間は近所の中華料理屋でお手伝いしているというパワフルさ。まだまだ、ここで女将さんと話をしたいが、旦那さんがやってくる前に、他の客へ席を渡すことにしたのだ。

そして店を後にする際、女将さんにこんな言葉をかけられた。

「また遊びに来てくださいね!」

「遊びに来い」だなんて、酒場でこんな風に見送られるのは初めてだし、何だか無性に心へ突き刺さった。

店を出て、振り返ってもまだ見ている女将さん。忙しいはずなのに、私が見えなくなるまでお見送りをしてくれる女将さん。

こんなのが、常連客になる瞬間かもしれない……と思いつつ、またきっと「遊びに来る」ことを固く誓うのであった。

住所:東京都杉並区上荻1-16-14/営業時間:17:30~23:00/定休日:月・日/アクセス:JR中央線・地下鉄丸ノ内線荻窪駅から徒歩2分

取材・文・撮影=味論(酒場ナビ)

「ちょっと待ってよ……“ただの家”じゃん!」と、今まで何度となく叫んできた。どういうことかというと、入った酒場があまりにも一般家庭の内装に近く、シブいを通り越して“ただの家”の状態に、何度となく驚かされているのだ。
最近、ある酒場を訪れたときのこと。そこでは“スマホ注文システム”を導入していて、私はこの日はじめて体験することになった。手元や店の壁などにメニューなし、スマホの小さい画面の小さな写真のみで料理を頼むシステム。老眼でたどたどしくも、何とか注文することができた。そのうち酒と料理が運ばれてくる。また、しばらくしてスマホから注文……これの繰り返し。人件費削減や領収書の電子化など、合理的で多くの利点があるのは分かるが……それでも、ちょっと料金が上がっても、料理が届くのが遅くなってもいいから、もっと店の人と“会話”がしたい。特に、はじめての店の独酌は寂しい。酒場にも溶け込めず、なんだか自分がこのスマホ注文と同じく無機質な存在になった気分だ。タッチパネル注文だって最初は違和感があったが、今ではだいぶ浸透してきたように、いずれ違和感なく利用できるのだろうけれど、今のところは「う~ん……」という感じ。というのも“会話の温もり”を感じる店が、まだまだ世の中には多いからだ。
“ハンバーグカレー”を考え出した人物は、つくづく欲張りだなと思う。だってね、ハンバーグという単独でも人気ランキング上位の料理を、絶対的王者であるカレーと合わせて一品の料理にしちゃうんだから、そりゃ欲張りと言わざるを得ない。それでいうとカツカレーもそうだし、丼ものに至っては欲張りの塊みたいなものだ。