流行りに関係なくうまい

JR大久保駅の南口からすぐ。小滝橋通りへと続く、飲み屋のひしめく細い通りに『長寿庵』はある。メニューはそばにうどん、それの温かいのと冷たいの。タネは天ぷらときつねにたぬきと玉子とわかめ。きわめてシンプルだが、昼になると近隣のサラリーマンや学生が列をなすほどの人気店だ。

定番の天ぷらそばも見た目だけなら目を引くところはないが、食べればその人気の理由がわかる。ツユはどっしりとした旨味をたたえ、ひと口すすれば、かえしの香りが抜けていく。そばは製麺会社に配合をオーダーした特注品で、しなやかさよりも存在感重視。濃いめのツユとの相性が素晴らしい。

天ぷらそば380円にゆで玉子40円。
天ぷらそば380円にゆで玉子40円。

衣の厚い天ぷらは、そのツユにしっかりとひたしたい。ガッシリからトロトロへ変化した天ぷらは小エビの香りもよく、立ち食いそばならではのうまさを味わえる。

最近の立ち食いそばといえば、喉越し良い生麺に、柔らかめのツユと衣薄めのさっくり天ぷらが定番だが、そんな世間とは真逆を行く『長寿庵』。流行りとは関係なくうまい。

ゆで玉子に濃いツユをしみこませて食べるのが最高。
ゆで玉子に濃いツユをしみこませて食べるのが最高。

『長寿庵』が大久保でオープンしたのは1995年のこと。実は店主の笠原さんは、それまでにさまざまな紆余曲折を経てきている。

実は立ち食いそばサラブレッドだった

荒川区の三ノ輪に同じ『長寿庵』という立ち食いそば店がある。笠原さんの父が始めた店で、笠原さんはそこの2代目になるはずだった。笠原さんは大学を出てから、チェーン系のそば店で働いていて、その合間に三ノ輪『長寿庵』も手伝っていた。そんなときに父の体調が悪くなり店を継ぐことを打診されたのだが、三ノ輪という土地柄になじめず、笠原さんは2代目の道を選ばなかった。結局、三ノ輪『長寿庵』は、親族関係の方が継ぎ、今も営業している。

店主である笠原さんの立ち食いそば愛は深い。
店主である笠原さんの立ち食いそば愛は深い。

笠原さんはその後、サラリーマンとして働いたり牧場で働いたりと、そばとは無縁の人生を送ることに。しかし隠居していた父が脳梗塞で倒れてしまい、実家に戻る。しばらくは実家が所有していたアパートの管理をやりつつ父の介護をすることになったのだが、そのとき笠原さんはまだ32歳。介護生活を続けているうち「ちゃんと働きたい」と思うようになり、自分でそば店を始めることを決意。大久保で『長寿庵』を始め、今に至るのである。

一度は拒んだ立ち食いそば。それをなぜまたやろうとしたのか笠原さんに聞くと、「自分が勝負できるのは、立ち食いそばしかなかったんだよね。親父の作るツユはうまいと思っていたし、それで店をやればいけるだろうって、思ったんです」という答えが返ってきた。やっぱり、そば屋の子は、そば屋だったのだ。

手を抜かない仕事がうまさにつながる

『長寿庵』のそばはシンプルだが、基本がちゃんとしている。ダシは毎日ひき、4日寝かせたかえしと合わせる。ツユは前日に残ったものを塩梅を見ながら、その日のツユに合わせる。こうすることでコクが出る。

ツユを合わせるのが大事。
ツユを合わせるのが大事。

そばはツユに合うよう製麺会社に配合をオーダー。たぬきには小エビをちょっと入れる。ネギはなるべくフレッシュなものを出せるよう、こまめに切る。こう書くと当たり前のことばかりのように思えるが、その当たり前をちゃんとやっているからこそ、『長寿庵』のそばはうまいのだ。

きれいに揚がったたぬき。
きれいに揚がったたぬき。

その魅力を存分に味わえるのが冷やしたぬきだろう。普通、冷たいそばは締まったコシが大事。しかし、ゆで麺はすでにゆでられた麺を再加熱するため、若干の「のび」が生じてしまい、コシは期待できない。ゆで麺の冷やしは、おすすめできる食べ方ではないのだ(そのやわさが好きな人もいるが)。

冷やしたぬき340円。安すぎる……!
冷やしたぬき340円。安すぎる……!

しかし『長寿庵』のゆで麺そばは、それに当てはまらない。特注のそばはしっかりとしたコシがあり、すすり心地も上々。旨味たっぷりのツユとサクサクのたぬきが絡んだそばのうまさは、これがゆで麺とは思えないほどだ。

立ち食いそばの優等生ともいえる『長寿庵』だが、店主の笠原さんも、そろそろ高齢。体力的にキツイらしく、以前は18時までだった営業時間はだんだん短くなり、今では16時30分には閉めている。それでも笠原さんは「70歳までは続けたいねえ」と言ってくれた。立ち食いそばのお手本のような『長寿庵』のそばを、まだしばらくは食べられそうなことが、とにもかくにもうれしい。

住所:東京都新宿区百人町1-24-8/営業時間:7:30~16:30(日・祝は9:00~16:30)/定休日:土/アクセス:JR中央線大久保駅から徒歩2分

取材・撮影・文=本橋隆司