済州島
朝鮮半島南部に浮かぶ、韓国最大の島。日本占領下の1922年に大阪との航路が開かれると、渡日者や出稼ぎが急増。大阪・生野のコリアンタウンの下地ともなったほか、東京・荒川区への移住も進んだ。現在は「東洋のハワイ」とも呼ばれる観光地に発展している。
韓国の人々の生活の匂いが漂ってくる
街を南北に貫く尾竹橋通りにはさまざまな飲食店やマンションが並び、昭和の雰囲気を残す荒川仲町通りは夕暮れどきのにぎわいが楽しい商店街だ。そして、そこかしこから韓国の人々の生活の匂いが漂ってくるのだ。古びたキムチ屋さん、ハングル文字の看板、韓国の教会、朝鮮学校、おばちゃんたちの語らう韓国語の響き……。
そして、安くてうまい焼き肉屋がとっても多い界隈なんである。『モランボン』もそんな店のひとつだ。年季の入った店内にお邪魔してメニューを見てみれば、カルビやロースといった焼き肉の部位のほかに、見慣れない料理名も並ぶ。
カオリフェ、モンクッ、コサリスープ……これ、すべて済州島の郷土料理。ここ三河島は、韓国南部の済州島から渡ってきた人々がコミュニティーをつくり、世代を重ねてきた街なんである。
刺し身の酢味噌和えに、海藻のスープ
「海鮮が多いことと、チョジャンっていう酢味噌をよく使うことが特徴でしょうか」
店主の金田聖哲さんが、済州島の料理についてレクチャーしてくれた。代表的なものはカオリフェだろうか。「カオリ」とはアカエイのこと。
「日本では、カスベって呼ばれてますね」
で、「フェ」とは刺し身を意味するのだが、韓国では生の魚の切り身とニンニク、コチュジャンなどをエゴマで巻いて焼き肉のように食べるスタイルが一般的。そして済州島のフェは、酢味噌で和えるものが多いのだとか。
カオリフェもアカエイと自家製のチョジャンのほか、春菊、ニラ、キュウリ、水菜と、野菜をたっぷりと使っている。アカエイのコリッとした歯ごたえと野菜のシャキシャキ感をチョジャンがまとめていて、これは酒が進んでしまうつまみだ。
刺し身と言えば、ナマコも済州島ではよく使う食材だという。
「冬の間だけですが、3月まではありますよ」
ナマコもチョジャンに漬けたりもするが、『モランボン』では唐辛子やニンニクと一緒にポン酢で和えている。これまたとろとろコリコリな食感が楽しい。
こんな海鮮をつつきながら、肉をガンガン焼いていく。ロースターから上がる香ばしい煙に食欲が刺激される。肉はどれもこれも新鮮でうまい。
ホルモンもいろいろあるのだが、「ヤン」なるメニューも発見。これはハチノス(牛の持つ4つの胃のうち2番目)とセンマイ(同3番目)の間にあるつなぎ目の部分だという。「一頭で一人前が取れるかどうか」のなかなか貴重な部位で、ほどよく脂が乗っている。
そして2種のスープがなんともいい味を出しているのだ。モンクッはホンダワラという海藻がたっぷり入っていて、優しい塩味がじんわり染みる。肉の油が洗い流されるようだ。
「済州島では結婚式などお祝いの行事で豚を潰すんですが、そのときに出た内臓などを炊いた出汁にモン(ホンダワラ)を入れて出すんです。おもてなしの料理ですね」
一方、コサリスープは牛肉の出汁。ゼンマイ、シイタケ、長ネギ、ニラ、牛肉と具だくさんで、とろみほんのり。これは体が温まる。米とも合いそうだ。スープはどちらも済州島の家庭の味。焼き肉のお供に、そして締めにもぴったりだ。
済州島の人々を支えたカバン産業
荒川区のこの地域に、果たしていつごろから済州島の人々が住むようになったのか……諸説あるのだが、1910年代後半のことと考えられている。日本が朝鮮半島を支配していた時代のことだ。ひとりの男性が済州島の北西部にある高内里(コネリ)という村から三河島にやってきたことが始まりだったそうだ。
やがて彼を頼って、三河島に来る高内里出身者が増えていくのだが、そんな人々が就いた仕事は縫製業だった。とりわけカバンの製作だ。というのも、三河島は明治時代後期から皮革産業が根づいた地域だったからだ。
加えて、いまも三河島のすぐそばには日暮里の繊維街が広がっているが、こちらも大正時代から布や革製品を扱う店が増え始めた。だから作り手には大きな需要があったのだ。
こうして三河島にはカバンづくりに携わる韓国人のコミュニティーが広がっていく。戦時中には、兵士たちが背負う背嚢(はいのう)づくりなんて仕事にも携わったそうだ。
戦後、韓国が独立を果たしても多くの人は帰国せず、三河島に留まった。さらに1948年、済州島で四・三事件(軍による住民弾圧)が起きたときも、三河島に逃げてくる人々がいたといわれる。
金田さんの母が三河島に来たのは「戦後のことだと思います」。
それから先に日本に渡っていた父と結婚。ホルモン焼きの店を営んでいたという。
「昔の三河島はいまより活気のある街でね。子供が外で遊びまわって、あちこちからカバンを縫うミシンの音が聞こえてきて」
そんな下町で金田さんは生まれ育った。そして40年ほど前に母が開き、兄が受け継いだ『モランボン』を、3代目として守り続けている。
現在では4世、5世の時代になり、少しずつ日本社会との同化が進む。カバン生産も中国にシフトしていき、受け継ぐ人は激減した。時代は変わっていくけれど、三河島にはいまも、済州島の人々が紡いできた暮らしがある。その風景を、歩いて探してみてはどうだろう。
『モランボン』店舗詳細
取材・文=室橋裕和 撮影=泉田真人
『散歩の達人』2024年4月号より