ビジネス街の昼時、どこからともなくスパイシーな香りが漂ってくる。たどるとそこには黒いボディのキッチンカー。メニューの写真や旗は一切なくどっしりした構えで、「ただ者じゃない!」と思わせるオーラを醸し出している。その名は『TOKYO PAELLA (トーキョー パエリア)』。
店主は、業界のレジェンド的存在、吉沢さんだ。開業以来メイン料理をパエリア一本に据えて走り続けている。出店場所に到着するとすぐに準備を整え、開店時間までに、まず5枚炊き上げる。開店したら、注文を受けながら、盛り付け、会計と大忙し。さらに追加でどんどん炊く。1枚は約10 人分で、忙しい日は合計14枚を数えると聞き、びっくり!
誰もやっていないことに経験を生かして挑戦
そもそも、なぜキッチンカー? なぜパエリアなのだろう? 吉沢さんの料理人としての人生はロンドンで始まった。「20代の頃、海外を放浪していて、ロンドンの日本料理店で仕事を見つけたんです。一旦帰国して就労ビザを取って再訪、3年間働きました」。帰国後、港区六本木のカリフォルニア料理店の厨房に入ったが、ここでスペイン人のレストランオーナーに出会った。腕を見込まれ誘われて、家族とともにバレンシアへ移住。スペイン料理と日本料理を提供する店の料理長として、ここでも3年間活躍した。
経験を積んで再び日本に戻った吉沢さんは当然、独立開業の道を考えた。「中央線沿線に住んでいるので、吉祥寺辺りでレストランを開きたいなと思いました。でも、家賃が高い。人件費もかかる」。二の足を踏んでいた頃、家族と出かけた公園で、たまたまキッチンカーに遭遇した。「ふと妻が、『キッチンカーっていいかも』と、言ったんですよ」。これが、運命の瞬間だった。自身も可能性を感じ、すぐにリサーチを開始。立川市にキッチンカーを扱う業者を見つけて、移動販売で開業すること、車の制作について相談し、一気に話が進んでいった。店名とロゴはデザイナーの友人に依頼。車体の色は、当時は他に見かけなかった「黒」に決めた。「メニューも、他にやっている人がいなくて、経験を生かせるものがいいなと考えたんです。すると、パエリアが浮かびました」。スペインで滞在したバレンシアは、米の産地で、パエリアは日常食。肉や魚介、野菜など身近な食材をなんでも使い、野外で薪を焚た いて親しんだ経験がよみがえった。
「車内で作って、できたてを提供したい」。日本人の味覚に合うよう具材やスパイスを変え、独自のアレンジを探求。吉沢さんのパエリアは、一から車内で調理するのが醍醐味。大きなパエリアパンを2枚並べ、スパイス、ミネラル水、カリフォルニア米、具材を重ね入れ、点火。約20分で香ばしいパエリアが完成する。
具材は、飽きずに楽しめるよう、肉と魚介、イカ墨を週替わりでローテーション。取材した日は、豚ミンチ、ナス、ズッキーニ、パプリカのケイジャンスパイスパエリアだ。タパス(前菜)とスープは、パエリアの隣に盛り合わせて見栄えするよう考える。黄色いパエリアなら、スペイン産オリーブの緑をアクセントにした若鶏とトマトマリネ、濃厚なオニオングラタンスープというように。さらに普通サイズでも盛りがよく、添えられたレモンの分厚さもうれしい。「楽しみなランチでしょ。量が少ないのは、僕が好きじゃない」。だからつい、ドーンと太っ腹になるわけだ。
一途においしい料理を作るブレない心意気が成功の鍵
このスタイル、開店当初と変わらないが、最初の3~4年はまったく売れず、苦労の連続だった。「一番大変だったのが場所探し。1週間埋めるのもひと苦労でした」と振り返る。土・日のイベントに出かけても、散々な日々が続いたが、おいしい料理を提供するんだという心意気で挑み続けた。すると、徐々にリピーターが増え、気がつけば行列ができる人気店になっていた!「初出店の頃のお客さんが、今でもわざわざ買いに来てくれるんですよ」。そう話す吉沢さんは手応えをひしひしと感じているようで、笑顔がとてもまぶしい。現在は、「ネオ屋台村」「TLUNCH」が主催する場所に出店。出店情報はそれぞれの公式サイトから確認できる。
「手数料はかかりますが、場所に困らず、情報発信してもらえて助かっています」。
ますます増加するキッチンカー。実店舗を構えるより初期投資が少なく、始めやすいと思われがちだが、「簡単ではない」と、吉沢さん。「始めたら信念を持って続けること。決めたことをブレずにやり通せば、きっとお客さんに伝わるはず」。そう後輩にエールを送りつつ、さらりとつぶやいた。
「僕自身もっとキッチンカーを極めたい」。
この日も14時前に売り切れ御免。片付けて、拠点に戻ったら、来週の買い出しだ。「旬の小イワシやアサリを仕入れて、夏らしいパエリアを食べてもらいたいな」。
『TOKYO PAELLA』店舗詳細
取材・文=松井一恵(teamまめ) 撮影=金井塚太郎 写真提供=吉沢さん