紫式部はなぜ『源氏物語』を書けたのか?

さて、『光る君へ』の紫式部は、おそらく、やや「妄想癖のある少女」である。

自分で空想をはたらかせて物語をつくってみたり、あるいは架空のキャラクターになりきってものを書いたりするのが好きな女の子。そんなふうに描かれているのだ。

たしかに、紫式部といえば、大長編フィクション『源氏物語』を書いた作者。

しかし、考えてみてほしい。

ぶっちゃけ、ちょっとくらい妄想癖があったからって、あんな大長編フィクションをなぜ紫式部は書けたのだろうか!?

なんせ時代は千年前。女性の社会進出が進んでいないどころの話ではない。女性は政治に参加する権利すら与えられていなかった。しかし紫式部は、教養に溢れた日本古典文学の最高峰『源氏物語』を書いてみせた。なぜ? 紫式部は、『源氏物語』という名の妄想、もとい、フィクションを書くことができたのだろう?

そこには、「漢文」の存在が関係している。

『源氏物語』のルーツのひとつとして、漢詩文は、とても大きな存在感がある。漢詩や漢文のオマージュもたくさんあるし、おそらく長いフィクションの構造を紫式部は漢文を読んで学んだ(連載のなかでこのあたりもぜひ紹介したいと思っている)。漢詩文なくして『源氏物語』は絶対に存在しなかった。

たとえば『源氏物語』第一帖に登場するキャラクターである桐壺帝と桐壺更衣は、中国の唐時代の玄宗と楊貴妃の物語をオマージュしていると言われている。そして実際、原文にも「まるで玄宗みたいだね!」という一文が出てくる。紫式部は、玄宗の物語を読んだとき、「こんな物語を私も日本バージョンで書きたい」と思ったのかもしれない。『源氏物語』誕生に、漢詩文の知識は不可欠だった。

では、なぜ紫式部は、漢詩文を読めたのだろう?

それはドラマ『光る君へ』でも描かれたように、紫式部は幼少期、父親から「漢文」を教わっていたからだ。

――いや、正確には教わったのではない。父親から「漢文」の知識を、紫式部は勝手に譲り受けたのだ。

賢さコンプレックス

紫式部の父親は、藤原為時。今でいう学者のような地位にあり、漢詩文に精通する男性だった。そして彼は自分の知識を息子に教えようとしていた。「息子」に、である。しかし実際に漢詩文に詳しくなったのは、息子の横にいて勝手に講義を聴いていた「娘」だった。

紫式部の父親は、そのことをずっと嘆いていたらしい。

「なんでお前のほうが賢いねん」と。

そう、娘に漢詩文の知識があっても、使いようがない。息子だったら、漢詩文の知識をもって学者として生きていく道もあるのに。娘ばかり賢くて、漢詩文を暗誦してみせる。

紫式部は、父親のこの「娘ばっかり賢くてもなあ」という落胆に傷ついていたのか、かなり「自分が賢いこと」へのコンプレックスを強く抱いていた。そのことを綴った『紫式部日記』の一部を見てみよう。

 

兄弟がまだ小さかったころ、漢詩や漢文を勉強していた。私も横で講義を聴いていた。しかし彼らの理解はものすごく遅い。そして、彼らは習ったこともすぐ忘れる。バカ? 一方、私はすらすら覚えられる。賢いからだ。

彼らに漢詩文を熱心に教えていた父は、いつだって嘆いていた。

「残念だよ、お前が男じゃないのが俺の運の悪さだ」と。

そういえば、いつだったか、誰かが言っていた。

「いくら男性であっても、漢籍の知識を自慢するような人って、バカみたい。というかむしろ賢さをアピールするなんて、本物のエリートじゃない証拠でしょ」

そんな声を聞いてからというもの、私は「一」という文字すら書いてない。

今となっては、勉強のべの字も知らない、アホとして生きているのよ……。

〈原文〉

この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞き習ひつつ、かの人は遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞ聡くはべりしかば、書に心入れたる親は、「口惜しう。男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」とぞつねに嘆かれはべりし。

 それを、「男だに才がりぬる人は、いかにぞや。はなやかならずのみはべるめるよ」と、やうやう人の言ふも聞きとめて後、一といふ文字をだに書きわたしはべらず、いとてづつに、あさましくはべり。

(山本淳子編『紫式部日記』角川ソフィア文庫より引用、現代語訳は筆者作成)

 

む、紫式部~! と千年越しに紫式部を抱きしめたくなるエピソードではないか。私はもう、この部分を読むだけで彼女の抱えていた、賢さコンプレックスに胸を痛めてしまう。

いや、本当に紫式部のような「講義を聴いているだけで漢詩文を覚えてしまう」賢い女性であっても、それでも賢さをひけらかしてはならない、という抑圧に苦しめられてしまうのだ。賢い女の子がいつしか自分の能力をひけらかすことを抑圧してしまう、という構図は現代ですらしばしば見ることがある。が、千年前から賢い女の子の苦悩は変わっていないのである……。

紫式部は、大量の漢詩文をおそらく暗誦できるレベルで理解していた。そのインプットの素地が、『源氏物語』を生むに至った。

手塚治虫がアメリカのディズニーアニメ映画の影響を受け、夏目漱石がイギリス文学の影響を受け、村上春樹がアメリカ文学の影響を受けたのと、同様に。

紫式部は、中国の漢詩文の影響を受け、『源氏物語』を書いた。

紫式部が生まれ育った場所

さて、「一」という文字すら人前で書こうとしなかった、「いとてづつに(訳:めっちゃバカとして)」生きていた紫式部が、なぜ『源氏物語』を発表するに至ったのか? それは次回書くとして、今回は紫式部が生まれ育った場所を散歩して終わろう。

紫式部が生まれ育った場所は、いまは廬山寺というお寺が建っている。

御所の東隣にあり、大きく「紫式部邸宅地」と書いてあるので、散歩しても迷わない場所にある。

中に入ると、大きな紫式部像が私たちを待っている。

そして、昭和40年に作庭された枯山水庭園は、現在「源氏庭」と呼ばれている。

紫式部にちなんで、平安朝の庭園っぽさを表現したものらしい。というのも平安時代の庭は曲線的なところが特徴で、その曲線感は残しつつ、しかし現代風に苔と白砂を使った庭に仕立てているとのことだ。

6月末~9月初め頃は、紫式部にちなんだ花である桔梗が見ごろらしい。その頃にぜひ散歩してみてほしい場所だ。

そういえばどことなく丸い、気がする……。
そういえばどことなく丸い、気がする……。
この曲線感が、平安の庭なのである……。
この曲線感が、平安の庭なのである……。

紫式部もこんな雰囲気の庭を眺めつつ、「今度登場させるキャラクターはどんな人にしようかな」と考えたのかもしれない。そう思うと、ときめいてくる。

世間に対しては賢さを抑圧した女性だったかもしないけれど、頭のなかで妄想して空想を働かせているときくらいは自由であってほしいな、というのが千年後の『源氏物語』ファンの願いである。

文・写真=三宅香帆