おしゃれだけど緊張させない店
もう12月だっていうのになかなか寒くならず、年末の気配がしない。しかし髪をすっきりさせてから新年を迎えたい人は多く、美容師である英香さんにとってはまさに師走、走り回るような月だ。そんなときにすみません……。
取材先である二子玉川の『88亞細亞』(ハチハチアジア)に、一足先におじゃました。ベトナム、タイ、台湾など各国のグルメをいろいろと食べられるアジア料理店だ。
くすんだミントグリーンで統一されたタイルとテーブルに赤いイス。時期柄、クリスマスを勝手に感じ取ってしまった。しゃれているが、ほどよく雑多で気取らず居やすい。
一方で奥の席はウッディなインテリアに暖色の照明が落ちてゆったりとくつろげるムード。アジアの親しみやすさと二子玉川らしい落ち着いた空気がどちらもある、ふしぎな空間だ。
そこに英香さんがやってきた。彼女とはこの取材で初対面。おしゃれなんだけどやわらかくて、職業柄かさりげなくこちらにも質問してくれたりと、相手を緊張させない空気をまとっている。うーん、まさにこの店の印象とぴったりの人。
「一見やわらかい風にしてるけど精神面はめっちゃ強いから、一緒に働いているスタッフからは強っ! て言われてますよ」と英香さんは笑う。そりゃそうか、経営者だもんな……。
すきなことに的を絞っていく
Instagramで5.2万フォロワー(2023年12月時点)を持つ英香さん。その数のすごさもあるが、彼女の手掛けたヘアスタイルは圧倒的に何かがちがう。いや、私は素人だから具体的にどうちがうのかはわからない。でも洗練されていて、特別な感じがします。
「はは、そうですか? 好みがはっきりしてるんです私。すきなことしかやってない。だから統一感があるのかな。こういう人が来てほしいっていうのを考えてブランディングしてます。広く受けるものより、的を絞って深くいくほうがすきで」
20歳から原宿の美容室で勤務し、28歳で第一子を出産。前職を辞めて物件探しなど準備を進め、30歳のときに『une』をオープンした。
30歳、ずいぶん早い独立だ。しかもはじめての子育てをしながらの経営……まったく想像がおよばない。
「大変そうってよく言われますけど、美容室の経営ってそんなに大変じゃないですよ。周りのサポートもあるし。ちゃんとお客さまさえいれば」ウフフと笑いながらも揺るぎない目に、彼女の強さを垣間見る。
“大人用ごはん”として頼りにしている
英香さんは『88亞細亞』に直接来店することもあるが、宅配で頼むことのほうが多い。今日はよく注文するという2品をいただくことにした。
よく混ぜて食べてくださいね、と提供されたASIANトーバーライスは、ナンプラーを中心に据えた調味料で豚ひき肉を炒め、ごはんとあわせて食べる一品。
「あんまり他にない味で自分でも再現できないからいいですよね」と英香さん。たしかにこれまでに食べたことのない味だ。刻んだレモングラスがアクセントになっており、上のたまごを割ったり周りのアチャール(漬物)を和えたりと変化もたのしい。
カオマンガイは、鶏肉がきれいな薄ピンク色。大ぶりだがしっとりして食べやすく、2種類のつけだれはどちらも美味。そして器がかわいらしい。
「いつも子ども用の食事は朝作るんです、旦那さんが在宅勤務なのでそれを食べさせてもらって。家で作るのは子どもが食べやすいメニュー。うちの子はこういうアジア料理ってまだ食べないから、仕事で疲れたときに“大人用ごはん”としてUberEatsで頼むんです。帰りの電車で注文しておいて、家についたら届いてる感じ」
人気の美容師で経営者の英香さんは、6歳と2歳の子の母親でもある。
「前は23時くらいまで働いてたんですけど、朝いなくて夜もいないとさすがに子どもがかわいそうで。今は20時には帰るようにしてます」
美容師の仕事は朝が早く夜が遅い。自分が母親としているためにも、休みを自由にとれる経営者のほうがやりやすいのだと彼女は言った。そうか。美容師で経営者で母親で……役割を3つも背負って大変だとばかり考えていたが、むしろその3つの組み合わせだからこそ、うまく生活が成り立っているのかもしれない。
新店舗はお客さまとスタッフのために
2024年2月、中目黒に『une』の2店舗目を出す予定の英香さん。経営が軌道に乗ってのことでしょうか?
「いや、自分のビジョン的には一切なかったんですけど、スタッフもお客さまも増えてきて。お客さまがお店にみちっと埋まってるのってあんまりすきじゃないから……お客さまとスタッフのために出すって感じです」
ええ~! つい声を出してしまう。すごいなそれは。
美容室の立ち上げ時、多くの人は3〜4席の小さい場所を借りるという。しかし英香さんは空間に余裕をもたせるため、また2店舗目も出さなくていいようにとはじめから10席で『une』を作った。それでも想定をはるかに超えて、客が入るようになってしまったのだ。
「うちのスタッフみんないい子たちで、新規のお客さまもたくさん来てくれるんです。それがいつまで続くかはわからないけど、お客さまをいい空間で迎えられたらなと思って。今いるお客さまをずっと大切にしていきたいですね」
美容師としての感性や技術で人を惹きつけるだけでは、経営はむずかしい。英香さんの、すきなものごとにたいする強い気持ちと周囲の人たちへの愛が『une』をやわらかく動かし続けている。
忙しい日々をトーバーライスとともに
英香さんは「ASIANトーバーライス」がいちばんのお気に入り。『88亞細亞』のごはん系メニューはどれもボリューミーなので、いっぱい食べる旦那さんと分けあうことが多いそうだ。ハーブやスパイスが効いてインパクトある味なのに脂っこくないのも、“大人用ごはん”としては助かるポイント。
英香さんと「おいしいですね〜」「こっちのたれがすき!」など言いあいながら、ゆっくり食べた。こんなにゆっくり食べているのは久しぶりだという。せっかちな性格で……と彼女は言うが、もう15年続けてきた美容師という仕事のスタイル上、食事にあまり時間をかけないことに慣れてしまったのもあるはずだ。多忙な彼女にとって今この時間がたのしいものであることを願った。
毎日忙しいけど、そんなに大変じゃないですよと笑う英香さんの軽やかさ。それは「すきなことしかやってない」と断言できる彼女自身の強さにも、家族や職場スタッフとの深い信頼関係にも由来している。そして『88亞細亞』のような気軽に頼れる飲食店にも、たしかに支えられているのだろう。
食事を終えて店を出ると「おいしかった~。じゃ、私ここから自転車で行っちゃいます!」と英香さんはママチャリで走り去っていった。彼女の忙しい日々は年末年始を問わずに続く。見送りながら、私もまた2024年に向けていっちょ頑張りますかと気合いを入れた。
取材・文・撮影=サトーカンナ