14歳の新人女優
昭和3年(1928)12月に少女歌劇の「松竹楽劇部」が大阪から上京し、浅草松竹座で昭和天皇即位を祝う『御大典奉祝レビュー』の公演をおこなった。そのメンバーのなかに、当時14歳だった笠置シズ子の姿がある。当時は入団2年目、三笠静子の芸名を名乗る14歳の新人女優だった。
同年の東京では天皇即位の祝賀イベントがあちこちで催され、人々は「昭和」という新時代の到来に期待して浮かれている。前年に比べると映画館や劇場の入場者数も増えて、興行界も元気がいい。ショービジネスのメッカ浅草はにぎわっていた。
当時ヒットしていた『東京行進曲』3番の歌詞で、浅草はしっとり情緒ある大人の恋の舞台のように唄われている……けど、実情はインバウンドで人があふれる現在と同じ、それ以上だったのかもしれない。
「浅草松竹座」と「日本館」
シズ子たちの公演がおこなわれた「浅草松竹座」は、この年8月にオープンしたばかりの新しい施設。1000人が収容できるコンクリート造りの巨大建造物は、六区通りに軒を連ねる劇場や映画館でもひときわ目立つ存在だった。外国映画を上映する映画館として建設したものだが、同年に発足した東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇団)の本拠としても使われるようになる。
松竹の少女歌劇はライバルの宝塚とは違って、もともと映画上映の合間に催すアトラクション目的に創設された劇団だった。
当時の大きな映画館では、フィルム交換の合間に漫才や演劇の実演がおこなわれていた。その出来不出来が、上映される映画作品と同じくらい集客にもかかわってくる。それだけにどこの映画館も、独自の路線でショーや軽演劇を上映した。
「松竹座」とは路地を挟んで斜向かいにある「日本館」も、創業時からアトラクションに力を入れていた。映画興行よりも上映の合間に見せる踊りのほうが人気だったとか。明治時代末期頃この場所に移転してからも映画では当たらず、大正期にはこれに見切りをつけて“浅草オペラ”の劇場に鞍替えしている。
浅草オペラとは、日本の大衆が好むようにアレンジされたオペラやミュージカルの総称。大正時代初期に大流行し、浅草六区の劇場や映画館ではさかんに公演されていた。関東大震災後に浅草オペラのブームは終焉するのだが、その役者や歌手たちは様々な方面で活躍をつづけている。
たとえば、仁村定一。浅草オペラのテナー歌手として名を馳せた人物で、大正時代末期頃にはジャズやアメリカの流行歌などを唄うレコード歌手になっていた。昭和4年(1929)に『アラビアの唄』で空前のヒットを飛ばしている。
その仁村が喜劇王・榎本健一と組んだ軽演劇の劇団が、昭和6(1931)に新築された浅草オペラ館で旗揚げ公演をおこない、これが話題になった。
自堕落で享楽的なようで、明るく爽やかな雰囲気が漂う……不思議な魅力のある仁村の唄声。シズ子もこれを生で聴いただろうか? この頃の浅草は、彼女の第二のホームグラウンドでもある。東京松竹楽劇部は団員が揃っておらず、大阪松竹楽劇部の応援なしには興行を打つのが難しい。そのためシズ子も度々上京して「浅草松竹座」の舞台に立っている。
男装の麗人・水の江瀧子
やがて昭和6年(1931)になると、松竹少女歌劇にも大スターが誕生した。この年の5月のレビューで、東京松竹楽劇部第一期生の水の江瀧子が男性風の髪型で舞台に立った。日本初の短髪女優。長身の彼女にはそれがよく似合う。凛々しい姿にたちまち人気は急上昇。「男装の麗人」と呼ばれるようになり、客席はファンの女学生たちで埋め尽くされるようになる。
水の江の初舞台は「御大典奉祝レビュー」だったのだが。この時、大阪からの応援で出演していたシズ子は、初舞台に戸惑う水の江を助けて衣装の着付けや化粧などを手伝い世話を焼いている。1歳年下の彼女を妹分のように可愛がっていたという。
そして、姉貴分の彼女もまた、この頃には歌のスキルに磨きをかけて劇団内で頭角を現すようになった。
昭和9年(1934)には、シズ子が唄うレビューの主題歌「恋のステップ」が人気を呼んだ。当時の流行歌のトレンドでもある“ジャズ調”の明るく軽やかな楽曲は、少女歌劇の舞台にもよく馴染む。コロムビアからレコード発売もされて、流行歌手の仲間入りをしている。
”歌姫”誕生前夜
昭和12年(1937)7月4日に、松竹少女歌劇の新しい本拠となる「浅草国際劇場」がオープンした。日中戦争勃発の3日前、戦前の平穏な時が終わる間際の頃である。
この新しい本拠のキャッチフレーズは「東洋一の五千人劇場」。補助席を含めると実際の収容人数もそれに近い。少女歌劇の人気が高まり、かつて浅草随一といわれた松竹座でも客が収まりきらなくなっていた。
大劇場の舞台では、松竹少女歌劇の名物ラインダンスがいっそう艶やかに映える。宝塚のレビューとは一線を画するパワフルでお色気にもあふれるステージに人々は酔いしれた。
松竹少女歌劇は最盛期を迎えていたのだが。シズ子はこの頃から浅草から足が遠のき、新天地での活動が始まる。いよいよ”歌姫”が世に現れる……。
取材・文・撮影=青山 誠