自分のだけかなと思い母親のも覗いてみたが、やはりそこにも大量の炭が浮かんでいた。母親も「コレって、食えんだべが……?」と、かなり訝(いぶか)しい表情だ。今でこそ備長炭で浄水や炊飯するなどあるが、当時は決して口に入れてはいけないものだった。“食べられる炭なんじゃないか”や“炭っぽい何か違うものなんじゃないか”などと母親は前向きに推測したが、しっかりと九割以上を残した。

そう、あれが実は夢だったんじゃないかと、未だに謎の記憶として蘇ることがある。秋田市にあったラーメン屋なのは間違いない。どなたかこの“炭ラーメン”について知っていれば教えてください。

2022年3月。後ほど理由は言うが、私はとある用で地元秋田へ帰省していた。突然の帰省だったので、帰ってからもバタバタと一週間が過ぎた頃。「あっ、忘れてた!」と、酒場へ行くことを失念していことにようやく気づいたのだ。時すでに遅しで、その日の夜8時に飛行機で東京へ帰らなければならなかった。夕方に父親が空港まで車で送ってくれるとは言ってくれたが、ちょっと微妙な時間だ。今回だけはノー酒場にしておこうかとも思ったが、一軒くらいは行っておこうと腰を上げた。帰る準備を早めに済ませた私は、秋田最大の歓楽街「川反(かわばた)」へと向かった。

日曜日の17時。日照時間が日本一少ない秋田といえども、3月のこの時間はまだ明るかった。ただ来てはみたものの、日曜日はどこも店は閉まっている。街を一周して入りたいところがなかったら諦めようと思っていると、突如目の前にシブい建物が現れたのである。

「えっ……営業(や)ってんの!?」

今まで何度となく訪れようとしたが、運悪く満席か休業で訪れることのできなかった老舗酒場『北洲』である。それより私が驚いた理由は、暖簾が出ていたことだった。

もちろん、この日も『北洲』へ行きたいとは思っていたのだが、日曜が定休日だったので今日の候補にはなかったのだ。今日はその日曜日、なぜ暖簾が出ているのか……

暖簾越しに中の様子を窺ってみるが、人の気配こそないが明かりが点いている。もしかすると、たまたま貸し切りで開いているのかもしれない。やはり、入って確認してみるか。

 

「すいませーん」

くぅ……すんばらしい。民芸調の統一感のある店内は、数席のカウンターと小さな小上がり……いや、奥に広そうな座敷もある。色あせた食器棚、タコの墨絵、吊り下げられた和照明、そのひとつひとつの“調度品”はどれも味わい深い。カウンターのイスには珍しい背もたれがあり、座り心地が良さそうだ。しばらく立ち尽くしていると、奥からマスターがやってきた。

 

「あの、今日は営業(や)ってますか?」

「やっでるすよ(やってますよ)」

「じゃあ、ひとりお願いします」

「こごさ(ここへ)……」

寡黙そうなマスターは、秋田弁でカウンターへ導く。やった、このカウンターに座りたかった! 座ってみると、座布団が敷かれており何だか不思議な安定感。これはいい、さっそく酒(さけ)ッコを頼むとすっぺ。

まずは軽めに瓶から……と、これは面白い。ビールとグラスラベルが違うことはあるが、このグラスは飲酒運転根絶のハンドルキーパーが記された“ノンアルコール”のグラスだ。ノンアルのグラスに注ぐ、麦汁アルコールの背徳感よ。

ごぐん……ごぐん……ごぐん……、や──っぱしアルコールが入ってた方がうんめぇぇぇぇ!! いいねぇ……いいですねぇ、地元の酒場。喉も心も湿ってきたところで、おつまみ頂戴したく存じます。

まずは「ひろっこの酢味噌和えとツブ貝」だ。“ひろっこ”とはアサツキの若芽で、たまに祖母が食卓に出していた。ジャグッとした歯触りから甘いネギのエキスが滴り、これが甘めの味噌と合う。地元の酒のつまみの代表格である殻付きツブ貝は、爪楊枝でぐるりと身を抜き取ってワタごと食べる。

甘じょっぱい味付けがいつだってウマい。おそらく“全国ツブ貝の身早抜き選手権”があったら、秋田の呑兵衛が優勝するだろうなじみの品だ。

若干肌寒かったので、「湯豆腐」をいただく。秋田なので「きりたんぽ」や「しょっつる」もいいが、こんな酒場では湯豆腐が似合う。秋田の湯豆腐は、豆腐以外にもネギ、水菜など野菜をたっぷり入れる。

湯を吸ったアチアチの野菜を吸い付くように食べるウマさ、豆腐は味が濃いんだなコレが。因みに秋田は、大豆の都道府県別作付面積が全国第3位らしい。子供の頃から豆腐と納豆は、舌から煙が出るほど食べていただけに納得の順位だ。

 

「ポンッ」

 

湯豆腐を頬張っていると、後ろで軽やかな音色が聴こえた。そう、秋田銘酒「飛良泉 山廃純米」の一升瓶を開けた音だ。

無論、注がれたそれは私の目の前にやってくる。銘酒“高清水”と記された升に、また他の銘酒飛良泉があふれんばかりに満たされていく……これも背徳感。あふれたら拝むようにゆっくりといただく。ツイー……、キレがある上品な味わい。父親がよく言っている「飛良泉が一番うんめぇ」の意味が分かった。

さあ、秋田の日本酒をツイッたからには、秋田の料理でどっしりと受け止めるのが地元情けというものだ。

 

「つけたんぽ」とは、きりたんぽに味噌を付けてそのまま食べるおやつ的な料理。それをマスターにお願いすると、なんと米をすり鉢ですり潰すところから作るというこだわり。しばらくして出来上がったものが届いたが……

デカイッ!! 武器になるんじゃないかと思うほど大きい。口を大きく開いて頭から喰らいつくと、「パリッ」とした表面の歯ざわり。中にはふわふわの米が詰まっており、その甘さと味噌の旨味がバッチリと合わさる。やはり米処は違う、本当に米がウマいのだ。

なんて可愛らしいシルエットの「ハタハタ一夜干し」でしょう。「おいしく食べてね」と、2匹並んで手を挙げているじゃないか。ちょっと焦げ目が強い仕上がりのハタハタからは、なんともいえない芳ばしい香りが漂う。

アツアツのところをガブリといく──うんめぇぇぇぇ!! 深海魚ならではの淡白だけど深みのある味わい。“ブリコ(卵)”を持っていないハタハタだったが、秋田のハタハタが最高であることは間違いない。ハタハタという漢字は“魚に神”と書いて“鰰”なのだが、酒の肴にはまったくもって神々しい一品である。秋田の味、やはり好きだなぁ。

一度は酒場へ行くのを諦めたが、やっぱり、飲みに来てよかった。ここへ来れたのも、何かの思し召しだったように思えてきた。

 

 

「お会計をお願いします」

結局、私が帰るまで他に客は来なかった。小一時間、ここに入ってから聴こえてきたのは、マスターのいくつかの訛りと料理をする音、あとはジー……という石油ストーブの音くらいだ。

その静けさこそ、なんだか夢を見ているようだった──

 

帰省の理由だが、実は母親の葬式のためだった。急逝とはこのことで、闘病一日で逝ってしまったものだから、それこそ夢だったらよかったのにと、この時のことを何度も思い出すのだ。案外、この日に店が営業(や)っていたのも、母親の導きだったりして……なんて本人に訊いてみたいけれど、もはや“炭ラーメン”の事だって訊くことは出来なくなってしまった。

店から出ると、ちょうど父親と妹家族が車で迎えに来てくれた。暗くなった店先で、「んじゃ、行ぐが」と父親に言われて車に乗り込んだが、やはり、いつもと何か違う。家族が一人足りないという、感じたことのない寂しさが込み上げてくる。

いやはや、酔っ払っていてよかった。あくびで目元をこすってごまかし、人生で一番の「さようなら」と共に、秋田の酒場を去ったのだった。

『北洲(ほくしゅう)』

住所: 秋田県秋田市大町4-1-11
TEL: 018-863-1316
営業時間: 17:30~23:00
定休日: 日曜日

※文章や写真は著者が取材をした当時の内容ですので、最新の情報とは異なる可能性があります。

取材・文・撮影=味論(酒場ナビ)