タイ王国

経済発展著しい東南アジアの中進国。日系製造業の一大拠点でもあり在タイ日本人は7万人を超える。日本には5万4000人のタイ人が東京、茨城、千葉、神奈川などに暮らす。日本人の配偶者、留学生、会社員、技能実習生が多い。日本各地にタイ寺院もある。

扉を開ければそこは本場のクラブのよう

やがてバンドの演奏が始まり、タイの歌が流れると、僕は懐かしさに包まれた。バンコクでもときどき、ライブハウスやクラブで飲んでいたことを思い出す。しばらくタイに住んでいた時期があるのだ。
あの頃を懐かしみながら、タイ人たちがつくる、ゆるやかな空気に身を任せる。やっぱり居心地がいいなと感じる。
どのテーブルも、でっかいビールタワーや、バケツにいろんな酒やジュースをまぜこぜにしたやつを注文して盛大に飲んでいる。これもタイの飲み屋ではよく見る景色だ。

若いタイ人でにぎわう店内からは、タイの「いま」が伝ってくる。日本生まれやハーフなど、日本で世代を重ねてきたタイ人も多いそうだ。
若いタイ人でにぎわう店内からは、タイの「いま」が伝ってくる。日本生まれやハーフなど、日本で世代を重ねてきたタイ人も多いそうだ。

つまみは日本人のイメージするタイ料理とはちょっと違うかもしれない。店員おすすめのメニューを頼んでみたのだが、まずはルークチン(肉や魚の練り団子)を揚げたものが人気なのだとか。ナンプラーベースのピリ辛なナムチム(つけだれ)がよく合う。

なじみのあるものから、現地感満点のつまみ

コームーヤーン(豚ののど肉焼き)も酒の席では定番だろう。コームー(のどの肉)は独特の甘みがいい。ナムチムはナンプラーや唐辛子などに、カオクア(炒り米)を加えたもの。厚めに切られたコームーの歯応えもたまらない。僕もタイ料理店ではたいてい頼んでしまう。
ソムタムは日本人にもなじみがあるタイ料理ではないだろうか。青パパイヤのサラダだ。塩卵(カイケム)や、魚を塩漬けにして発酵させたもの(プラーラー)が入ったものなどいろいろあるが、ここはオーソドックスなソムタムタイをオーダー。パパイヤのシャキシャキな食感と風味がなんとも爽やかだ。

コクのあるスープがいけるクイッティアオ・ナムトック1309円。
コクのあるスープがいけるクイッティアオ・ナムトック1309円。

さらにポテトフライまで出てきた。
「?」と思うが、タイにだってこうした洋食や軽食は浸透している。それらも含めていまの「タイ・スタイル」なのだろうが、どれもこれも、要するに「酒に合う」つまみなんである。タイの若い人たちはこういうアテで飲んでいるわけだ。
加えて本格的な一品料理も用意されている。もうもうと湯気を立てるトムヤムクンや、でっかい魚の丸揚げ、カオパット(タイ風チャーハン)まであって、踊り出す人もいるフロアにはなんだか似合わないようにも思うのだが、これまたタイ流だ。クラブだろうとちゃんとメシにこだわり、客もしっかり食べるのだ。
だからこの店の料理も、新宿などのタイ料理店で20年の経験があるというシェフが腕を振るう。彼の自慢はクイッティアオ(米麺)の中でも豚の血が入ったスープのナムトックだ。血といっても意外にすっきりしていて臭みはなく深みのある味で、飲みのシメにはちょうどいい。

湯島にタイ人が集まるようになった理由

この『MUMPAK BAR』は、飲み屋ひしめく湯島の路地の真ん中にある。まわりにもタイのスナック、カラオケ、レストランなどがおよそ20軒。小さなタイ世界がここには広がっているのだ。オーナーのタイ人ケンさんは、そのうちの一軒「ベンジャロン」という老舗のタイクラブで長年働いていたそうだ。

「昔はこのあたりのタイの店は『ベンジャロン』のほかに数軒だけ。それらの店のスタッフが独立して、まわりに自分の店を構えるようになって、少しずつ増えていきましたね」

湯島ではタイ人の店同士、例えば氷が切れたら融通しあうような関係なのだという。スタッフたちが住んでいるのも根津や新御徒町など近くの下町で、湯島の歓楽街を中心にゆるやかなタイ社会でケンさんも生きてきたのだが、「もっと日本人と一緒に働いて日本語を覚えないと」と焼き肉屋に転身。そこで言葉を磨き、さらにタイ料理店の店長を務めているときだった。コロナ・パンデミックが世界を覆った。ケンさんのまわりでも、飲食で働くタイ人が大勢仕事を失った。それにタイ好きの日本人の友達たちは、世界的な入国制限によってタイに行くことができなくなった。故郷に帰れなくなったタイ人も多い。

湯島のネオンの中にはタイ、ベトナム、フィリピンなどの店も多い。
湯島のネオンの中にはタイ、ベトナム、フィリピンなどの店も多い。

そんな「タイが“キットゥン(愛しい、恋しい、懐かしむ)”」な人々から「タイのような店を作ってよ」なんてケンさんは言われるようになる。そこで思い切って、自分の店を出してみることにしたのだ。そこに「タイ」を詰め込んだ。

「歌が好きだから」

というケンさんが青春を過ごした90年代のタイの音楽が流れ、スタッフの制服はタイに行ったことがある人なら誰もが覚えているだろうバイクタクシーのベストだ。日本に住んでいるタイ人のバンドが毎日ライブをやる。タイそのままの雰囲気が評判を呼び、「ムンパック(タイ語で“集まれる場所”の意)」という店名のとおり、日本に暮らすタイ人に人気の店となっていった。

厨房を仕切るベテランシェフも、バイクタクシーのベストを着こなす。
厨房を仕切るベテランシェフも、バイクタクシーのベストを着こなす。

コロナ禍が落ちつき入国制限が解かれると、本国からバンドがやってくるようにもなったそうだ。在住者ではなく観光客のタイ人も多い。

「タイのテレビ番組で紹介されたことがきっかけなんです」

タイ語が響く店内にいると、日本を忘れる。バンコクのどこかで飲んでいる気分になってくる。タイの音楽と、タイ人がつくる柔らかでおおらかな空気に身を浸したいと思ったとき、僕は湯島に出向くのだ。

ライブは平日でも毎日やっている。
ライブは平日でも毎日やっている。

『MUMPAK BAR』店舗詳細

住所:文京区湯島3-42-6堀ビル2F/営業時間:17:00~翌5:00。ライブは21:00~(金、土は24:00~もあり)/定休日:無/アクセス:地下鉄千代田線湯島駅から徒歩2分。

取材・文=室橋裕和 撮影=泉田真人
『散歩の達人』2023年7月号より