【武勇と常軌を逸した荒々しさ!森長可】
まず紹介致すは森長可(ながよし)殿。
前回の戦国がたりで予告しておったな。
森長可殿は織田家の重臣・森可成(よしなり)様の次男であるのじゃが、この可成様は儂の師であり命の恩人でもあるのじゃ。
若き頃の儂は可成様と戦に出陣し、戦のいろはや将としての心構えを学んだ。
儂が信長様の怒りを買い処断されかけた時も可成様と柴田勝家様の説得によって命を助けていただいたのじゃ。
可成様は武勇に優れたお方であったが長可殿はその血を強く受け継いでおって、初陣で27の首をとったり、寡兵で城に攻め込んで落城させるなど耳を疑うような功を挙げておる。長可殿が愛用した槍「人間無骨」は人を骨がないかのように叩き切ることから名がつけられておった。
じゃが、長可殿は武勇のみならず常軌を逸した荒々しさを持ち、信じられぬような逸話がいくつも残っておる
・信長様の作った関所に腹を立てて門番を討ち取って関所に放火
・手柄欲しさに攻めてすらいない城を落としたと信長様に文を送り、その後に城を強襲してまにあわせる。
・本能寺の変の後に裏切りの予兆がある武田遺臣の子供をさらって無理やり養子とし、安全圏まで逃げ帰ると山に放置する。(子は無事生還)
・人質となっていた弟を助けるために敵の城に潜入し救いだし、逃すためと30mの崖下に投げ落とす(弟は何故か生還)
など枚挙にいとまがないほどじゃ。
敵方が悪名を広めるために誇張するのはよくあることなのじゃが、長可殿の恐ろしいのはこういった逸話が家中の資料に残っておることである。
因みに長可殿の武蔵守という名は、瀬田の橋にあった関所の門番を討ち取ったことを聞いた信長様が、武蔵坊弁慶の五条橋での刀狩りに似ておるからと与えられたと言われておる。
森一族の悲劇
この森の一族は織田家中で一、二を争う武辺者であったのじゃが、同時に悲運の一族でもあった。
可成様の嫡男で長可殿の兄の可隆(よしたか)殿は金ヶ崎の戦いの前哨戦、天筒山の戦いにて討ち死にしておるし、可成様も宇佐山城にて浅井・朝倉連合軍に包囲され、三万の敵に対してたった千で善戦を演じるも力尽きて討ち死になさっておる。
長可殿の弟の蘭丸こと成利殿や坊丸、力丸の三人は本能寺の変にて信長様に殉じておって、残るは長可殿と末弟・仙千代のみであった。
賤ヶ岳の戦いで長可殿は秀吉に味方するのじゃが、仙千代が信孝様の元に人質となっておったため仙千代は処刑を待つこととなる。
家臣は仙千代を諦めるようにと説得したのじゃが、長可殿は「三人の弟を本能寺で失った、残る弟はどうしても失うわけにはいかぬ」と強行し難攻不落の岐阜城に忍び込み救出に成功するのであった。
これが上で紹介した逸話であるな。何故か岐阜城から生還した仙千代は長可殿の死後に家督を継ぎ忠政と名乗り、不遇の豊臣家臣時代を乗り越えたのちは徳川家のもとでも武功を立てて、明治まで森の名を残すこととなる。
現世では狂戦士とも呼ばれし長可殿は、武勇に優れておっただけではなく、軍学に通じて良き策を持って織田家に貢献したほか、茶や書の腕も一級品であったり、与えられた領地での町づくりでも才を見せるなど、気性の激しさを除けば欠点のない武士と言えるであろう。
長可殿の愛槍「人間無骨」は現存しておって、時折展示されることもあるで巡り合わせがあったものは見にいくが良い。
さて、まず一人目は長可殿であったが次紹介致すのは、
日ノ本に衝撃を与え、徳川家のあり方を大きく変えたあの武士である。
【優れた外交手腕、石川数正】
石川数正殿。
小牧長久手を経てどうしても話しておきたい武士といえばやはりこの者であろう。長く家康殿に忠臣として仕えながらも、小牧長久手の後に突如出奔し秀吉の直臣となったことは『どうする家康』でも描かれておった。
石川家はもともと徳川もとい松平家の重臣格の家系であり、数正殿は家康殿が今川家に人質としておった時より近習として仕えておった。
家康殿とは九つほど年が離れておるが、幼き頃から苦労を共にした盟友とも言える人物であったであろう。
桶狭間の戦いの後に徳川家が今川家から離反した折には、今川氏真殿と交渉して家康殿の正室・瀬名姫を取り戻すなど早くから外交面で重要な仕事をしておった。
徳川家と信長様との同盟である清州同盟を取りまとめたのも数正殿で、その外交手腕は小国の徳川家にはなくてはならぬものであったのじゃ。
徳川家を揺るがす大事件「三河一向一揆」にて多くの家臣が敵となった時、石川家も一向宗徒であったために数正殿の父・康正殿は一向一揆に参加して家康殿に反旗を翻した。
然りながら数正殿は父に従わずに家康殿を支え、一向宗から浄土宗へ改宗すると一向一揆鎮圧に大きく貢献したのであった!
数正殿といえば内政や外交の手腕が取り上げられるが武勇にも秀でておって、三河一向一揆の他にも姉川や三方ヶ原でも多くの武功をあげ、長篠の戦いにおいては先鋒隊を指揮して戦を勝利に導いておる。
文武に優れ忠義にあつい数正殿は家康殿に深く信頼され、家康殿の嫡男・信康殿の後見を任されるほか家臣団の筆頭格として家をまとめ、徳川家にとってなくてはならぬ存在であった。
信康事件ののちは岡崎城代として三河衆を預かっておったほか、本能寺の変ののちの難しい情勢もその外交の腕にて乗り切って参った。
じゃが徳川家の屋台骨とも言えた数正殿は突如出奔する。
此度は謎に包まれる数正殿の出奔の理由として考えられるものをいくつか挙げてゆこうではないか。
徳川家を守るため説
まず一番よく言われておるのが、『徳川家を守るため説』じゃ。
徳川家は長久手決戦に勝利したは良いものの秀吉は調略や外交を用いて領土を拡大し、遂に天下人にまで登り詰める。
徳川家が頼りにしておった反秀吉勢力も次々と秀吉に降り、秀吉と家康殿の力の差はもはや覆せぬほどになっていたのじゃ。じゃが、徳川家は秀吉に降るをよしとせず抵抗する意思を示しておった。
秀吉との交渉役を務めておった数正殿は両者の力の差を誰よりも知っておったため、抵抗の無謀さを主張したのじゃが躍起になる家中では聞く耳を持たれず、苦肉の策としての出奔であったというわけじゃ。
重臣筆頭格の数正殿が敵方となるということは、徳川家の戦術や戦略、そして内部事情が全て漏れ出たと同義である。
兵力に劣り、手の内も敵方に知られたとなれば万に一つも勝機はなく、徳川家も秀吉に降るしかなかったわけじゃ。
数正殿はその忠誠心故に、滅びへと舵をとる徳川家を自らが汚名を背負うことで守ろうとしたというのがこの説である。
数正殿の器量を気に入った秀吉が数正殿を家臣に欲しがり、数正殿は徳川を責めないことを条件として家臣となったという推察もなされておる。
不仲説
二つ目が家康殿と不仲であったとする説じゃ。
不仲となった理由とされる出来事はいくつかあるが、その際たるものが信康事件である。
以前にこの戦国がたりでも話したこの信康事件であるが、先に申したとおり数正殿は信康様の後見を務めておった。
家康殿の嫡男・信康殿が謀反の疑いから処刑されたこの事件で、後見の数正殿は罰せられることはなかったが家中での立場が揺らいだことは事実であろう。
更に、信康事件の一因となったとされる浜松勢と三河勢の不仲は数正殿が岡崎城代になった以降も続いた。
これは浜松勢をまとめておった酒井忠次殿と三河勢をまとめておった数正殿、徳川二大家臣の権力争いであったとも捉えることができるわな。
信康事件で数正殿を処分しなかったのは家康殿が数正殿を大切にしておった証とも言えるが、今まで二人の間にあった強い信頼を揺るがしかねない出来事であったことも事実である。
思えば信康殿の処遇について信長様のもとへ遣わされたのが忠次殿であったのも不思議な話である。
信康殿の潔白を示したいならば、信康殿の後見人でありその外交手腕で国を支えてきた数正殿を遣わすのが定石であろう。
そんな数正殿をあえて外し、忠次殿を遣わしたことは信康殿の処分は予定調和であったから。
といった邪推もできてしまうわな。
此度紹介した二つの説の他にも、秀吉の器量に惚れ込んだからとする説や単に待遇が良かったからとする説などいくつかあるが何故裏切ったのか、その真相は明らかとなってはおらぬ。
もしや秀吉や家康殿も知らず数正殿当人のみしか知らぬやもしれぬ。
その後、秀吉の家臣となった数正殿は関東に移封された徳川殿から中央を守る役目として、信濃国、現世の長野県の松本を与えられる。
数正殿が築城された松本城は現存しており、その大きさと美しさから姫路城に次ぐ人気を誇っておる。
因みに、この数正殿が寝返ってからというもの徳川家はてんやわんやであった。何せ家の重要機密を知っておるものが寝返ったのじゃ。今まで使っておったものを全て作り替える必要があった。
そこで目をつけたのが武田であったのじゃ!
徳川家は武田家の遺臣を多く登用しておった。その中には重臣格の者たちもおったために、武田の戦術や城作りを多く取り入れ、より強固な徳川軍に一新されることとなる。
徳川家が作った城には武田の築城技術が多く取り入れられておったりするのじゃが、これには進んで取り入れたというよりも取り入れざるを得なかったと考えられるのじゃ。
然りながらこれが徳川殿がのちに躍進する理由でもあるで、一概に悪しきことともいえないのが歴史のおもしろきところであるな。
因みに数正殿が亡くなったのちに起きた関ヶ原の戦いでは石川家は東軍に味方するのじゃが、帰参したとはみなされず外様大名として扱われ、後に御家騒動に巻き込まれて改易となっておる。
終いに
さて、此度の戦国がたりはいかがであったか。
『どうする家康』においても最も大きい分岐点とも言える数正殿の出奔。これから秀吉の家臣としての徳川家がどのように描かれるのか楽しみである。そして儂の出番もそろそろではないのか、そこもよく注目しこの後も楽しんでいこうではないか。
此度の戦国がたりはこの辺りで終いじゃ!
また会おう。
さらばじゃ!!
取材・文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)