現在を象徴する塔の足元に建つ。鬼平の剣友の寄宿先

地下鉄の押上駅から地上に出ると、圧倒的な存在感で聳え立つ東京スカイツリーが目に飛び込んでくる。現代を象徴するこの建物のすぐ前に、『鬼平犯科帳』の重要な登場人物のひとり、平蔵の剣友・岸井左馬之助が寄宿していた寺、春慶寺が建っている。

この寺は元和元年(1615)、日理上人により浅草森田町に創建された。そして寛文7年(1667)に本所押上村に移転してきた。江戸時代から「押上の普賢様」として親しまれ、多くの参拝客を集めていた。左馬之助は独身時代、長らくこの寺を寄宿先にしていた。

今では目の前にスカイツリーがそびえる春慶寺。
今では目の前にスカイツリーがそびえる春慶寺。
春慶寺の代名詞にもなった普賢菩薩を祀る普賢堂。
春慶寺の代名詞にもなった普賢菩薩を祀る普賢堂。

春慶寺は多くの作品で取り上げられていて、なかでも「明神の次郎吉」は寺自体が主たる舞台なのだ。そのため寺域や周辺の様子が細かく描写されている。左馬之助は盗人の次郎吉を荷車に乗せ、軍鶏なべ屋「五鉄」でもてなすため、蛍が飛び交う横川沿いの道を往くシーンが印象的。その左馬之助をドラマで何度も演じた江守徹さん揮毫の「岸井左馬之助寄宿之寺」と記された石碑が平成15年(2003)3月、寺の入り口に建てられた。

正面に江守徹さん揮毫の石碑が建っている。
正面に江守徹さん揮毫の石碑が建っている。

スカイツリーに見送られながら横川沿いに南へと向かう

春慶寺の脇からまっすぐ南に向かう道を辿ると、右手に業平公園という墨田区立の公園があった。昭和5年(1930)に開園し、春には桜の名所として親しまれている。今はスカイツリーのビュースポットで、桜越しに見るスカイツリーは見事。気持ちの良さそうな水が流れている場所は、子どもたちに大人気。

業平公園内を流れる小川は、子どもたちにとって格好の遊び場。
業平公園内を流れる小川は、子どもたちにとって格好の遊び場。

公園の通り1本西側には、日本たばこ産業東京支社があるが、その正門付近に閑斎・三浦平四郎の住居があった。この人物は『ないしょないしょ』という作品に登場する。

日本たばこ産業(JT)東京支社前では空の広さを実感できる。
日本たばこ産業(JT)東京支社前では空の広さを実感できる。

JT正門前の小道を南に向かえば、法恩寺脇に出る。寺伝によれば、最初は平河村にあった小さな草庵であったが、太田道灌の助成により長禄元年(1457)、寺院造営を果たしている。大永4年(1524)に道灌の孫、資高が法恩寺という現在の名に改めた。豊臣秀吉や徳川家康も立ち寄った由緒ある寺である。

『鬼平犯科帳』にもたびたび登場。「本所・桜屋敷」では、20年ぶりに再会した平蔵と左馬之助が、法恩寺門前にあった「茶店ひしや」で、湯豆腐を肴に熱い酒を酌み交わしつつ、昔の思い出を語り合う。

また「尻毛の長右衛門」の舞台としても登場。こちらは大店の橋本屋に潜入していた引き込み役のおすみが、店を抜け出し横川に架かる法恩寺橋へ向かう。その時、彼方に法恩寺の大屋根が望まれる、というように描かれている。法恩寺橋の上には、連絡(つなぎ)役の布目の半太郎が待っているのだ。

蔵前橋通りから延びる法恩寺参道。
蔵前橋通りから延びる法恩寺参道。
土地を代表する大寺院であった法恩寺。
土地を代表する大寺院であった法恩寺。
法恩寺では屋根越しにスカイツリーが望める。
法恩寺では屋根越しにスカイツリーが望める。

法恩寺の近くには、平蔵が左馬之助や井関録之助とともに剣の修行に励んだ一刀流の道場「高杉銀平道場」があった。「本所・桜屋敷」では「百姓家を作り直した藁屋根の質素な道場で、高杉銀平は名もうらず〜略〜名流がひしめく大江戸の剣客の中でも屈指の名人であった」と、紹介されている。

そして道場のすぐ近くにあったのが、土地の人たちが「出村の桜屋敷」と呼んでいた、名主・田坂直右衛門の屋敷である。物語はこの家の孫娘・おふさに平蔵と左馬之助がともに思いを寄せていた過去を語り合うことから、思わぬ方向に展開する。

高杉道場と桜屋敷があったとされる場所は、大横川親水公園の脇で、紅葉橋と法恩寺橋の間あたりとされる。ここはコンクリートで固められた都会にあって、涼しげな水音も楽しめる憩いの場所だ。街中歩きは楽しいが、この公園に沿って散策するのも悪くない。

高杉道場や桜屋敷があったとされる付近。
高杉道場や桜屋敷があったとされる付近。
癒やしを提供してくれる大横川親水公園。
癒やしを提供してくれる大横川親水公園。

横川の近くには彦十や平蔵が暮らした家があった

横川に沿ってさらに南下し、本所・三笠町1丁目、現在の亀沢4丁目付近に、これまた物語に欠かせない登場人物、相模の彦十が長い間暮らしていた家があったことになっている。平蔵の密偵となる前から住んでいた家で、一時期は大滝の五郎蔵も暮らしていた。

彦十は香具師上がりの無頼者で、若き日の平蔵にとっちめられて以来、その人となりにすっかり心酔。「銕さんのためなら命もいらねぇ」と言いふらしていた取り巻きのひとりだ。後に火付盗賊改の密偵となる。「本所・桜屋敷」では、左馬之助と別れた後、平蔵は偶然に彦十と出会う。その住居があったとされる場所は、当然ながら江戸の面影を見つけることはできない。

密偵・相模の彦十が住んでいたとされる付近。
密偵・相模の彦十が住んでいたとされる付近。

そして平蔵が暮らした家は、小説上では横川河岸・入江町の鐘楼前ということになっている。鐘楼というのは「本所時之鐘」として、横川北辻橋西側にお堂があった。今は大横川親水公園前にレプリカが建てられている。

本所時之鐘のレプリカ。作中ではこのお堂の前に長谷川家があった。
本所時之鐘のレプリカ。作中ではこのお堂の前に長谷川家があった。

現在の都営地下鉄新宿線菊川駅A3出口前に、長谷川平蔵の屋敷を示す銘板が掲げられている。そこから新大橋通りに出て、東に少し歩いた丸山歯科医院前の角にも、モニュメントがある。この一角に、実際の長谷川平蔵屋敷があった。そこは後に名奉行・遠山金四郎の下屋敷となっている。

実際に長谷川平蔵の屋敷があったのは菊川駅近く。
実際に長谷川平蔵の屋敷があったのは菊川駅近く。

物語に欠かせない二之橋には江戸の味が楽しめる店あり

平蔵が銕三郎と名乗っていた青年時代、本所・深川あたりで放蕩三昧の日々を送っていた頃から出入りしていた店が、本所二つ目の軍鶏なべ屋「五鉄」である。場所は「二つ目橋の角地で南側は竪川」とある。平蔵が火盗改長官になった後は、配下の密偵たちとの重要な連絡場所となった。やがて相模の彦十、雨引きの文五郎、おまさらが2階に寝泊まりするようになっている。

かつてここに「五鉄」のモデルと言われた軍鶏なべ屋があった。残念ながら現在は店じまいし、マンションに様変わりしている。

かつて軍鶏なべ屋があった馬車通りと清澄通りの交差点。
かつて軍鶏なべ屋があった馬車通りと清澄通りの交差点。

代わりに立ち寄りたいのが、安政元年(1854)創業の『中田屋茶舗』。創業者は日本橋の老舗茶舗「山本山」で修業を積み、独立した後は荷揚げに便利な竪川沿いの本所・相生町に店を構えた。昭和20年(1945)の東京大空襲で店は焼失。現店舗はその後に再建されたものである。

江戸の味を今も守り続ける『中田屋茶舗』。
江戸の味を今も守り続ける『中田屋茶舗』。
大橋健男さんは中田屋の五代目。
大橋健男さんは中田屋の五代目。
味わい深い人気の深むし茶・両国は1080円。
味わい深い人気の深むし茶・両国は1080円。

万治元年(1659)に竪川が開削されると、5つの橋が架けられ、隅田川から近い順に一之橋から五之橋と名付けられた。『鬼平犯科帳』では二つ目橋という名で登場。大川(隅田川)から船で「五鉄」に立ち寄る際や、弥勒寺門前にあるお熊婆さんの茶店「笹や」に行く時など、この橋が登場する。竪川は現在、上に高速道路が通ってはいるが、暗渠になっておらず水運が機能している貴重な運河である。

二之橋上から三之橋方面を望む。今でも船の行き来が見られる。
二之橋上から三之橋方面を望む。今でも船の行き来が見られる。

次回は大川(隅田川)に沿って、池波正太郎とその作品ゆかりの場所を歩いてみたい。

取材・文・撮影=野田伊豆守