『檜原村紀聞』で絶賛される集落

檜原村について書かれた瓜生卓造の『檜原村紀聞』(*1)をぱらぱらめくっていると、元郷地区の泉沢(いずさわ)という集落について触れている箇所があった。

「紅葉が美しく、頬をなでる微風が和やかである。檜原で一番環境のすぐれたところかもしれない。……もし檜原の人となるなら泉沢に住みたい、最高の別荘地ともなる土地柄だ、と思った」

泉沢集落は馬頭刈(まずかり)尾根に上がる登山道の途中にある集落である。筆者はこの本で初めて知った。こんなに絶賛している集落なら、一度はこの目で確かめたいと思った。

空が広く開けている小岩の地泉沢には武蔵五日市駅からバスに乗って行くのだが、他のところも少し歩いてみようと思い、「藤倉」行きのバスに乗って先まで行き、そこから泉沢へ向かうことにした。さてどこで降りようか。調べると、藤倉までバスが入った1986年までは小岩が終点だったようなので、昔の終点まで行ってみようと思った。そのあと北谷を流れる北秋川沿いをたどる。

 

*1 檜原村紀聞
『檜原村紀聞―その風土と人間』で、東京書籍から出版。瓜生卓造が1977年、檜原村の人々に話を聞いてまとめたもの。多くの人に聞いているので、文献としても貴重。平凡社ライブラリー版あり。

小沢地区の宮ヶ谷戸付近を流れる北秋川。多摩川に注ぐ秋川の支流で、月夜見山の東側が源流部になる。
小沢地区の宮ヶ谷戸付近を流れる北秋川。多摩川に注ぐ秋川の支流で、月夜見山の東側が源流部になる。

「小岩」のバス停の先に北秋川にかかる羽根撞(はねつき)橋がある。橋から川を眺めると北谷が深い。川の両側はコンクリートの護岸なので味気ないが、流れる水は透明度の高いきれいな水。しばし川面を眺めてから、都道を戻って小岩の集落に上がる。小岩の集落は北谷の上の段丘上に点在しているようだ。

少し上がると古い民家が何軒かみえてきた。「浅間尾根、小岩バス停」と記した道標があり、浅間尾根のほうへ向かうと角に立派な白壁の蔵が立っていた。その反対側には茅葺きの家。屋根をみると、そこは大きなプランターと化したように草が生い茂っていた。自然に還りつつあるようだ。

段丘上には比較的平らな畑が広がっていた。檜原村では住みやすいところだと思う。
段丘上には比較的平らな畑が広がっていた。檜原村では住みやすいところだと思う。

立派な家で車も停めてあり、洗濯物も干してあるので、声をかけてみた。平日は勤めに出ているのか、返事はない。代わりに犬に気づかれ吠えられたので、早々に退散した。
北秋川小学校の跡地へ上がると、グラウンドが残っていた。空が広く抜けている。下の川沿いの風景とはまるで違う。瓜生卓造も、この小岩の段丘上の空間と南谷の人里(へんぼり)が檜原で一番開けているところだと書いた。何年たってもその事実は変わらない。

グラウンドの隅のほうには錆びた滑り台とブランコがまだ残っていた。その脇にはお寺と、背後に数え切れないほどのお墓が立っていた。小岩の人たちは子ども時代にこの場所で遊び学び、年をとったらまたこの場所に戻り、かつて遊んだ場所で眠るのだろう。ちなみに、現在檜原村にある小中学校はそれぞれ一校。本宿にある。かつては北谷だけでも小学校は4校あった。共励(きょうれい)小学校、北檜原小学校、小岩のこの北秋川小学校、北谷の最奥にあった藤倉小学校の4校だ。

学校は1980年代にすべて廃校になったが、本宿にある檜原小学校から藤倉小学校までの距離はわずか10km程度。そのなかに4校も小学校があったのが驚きだ。おそらく歩きにくい難路で通うのが大変だったせいで、学校も多かったのかもしれない。
小学校跡から引き返して段丘上の広い畑のなかの道を歩いていくと、とある家の軒先に人が集まっていた。声をかけると庭に招かれた。庭先ではおばあさんと、近所に住む移住者が二人いてみんなで話していた。

「小岩も日当たりのいいところですが、私の生まれた人里もよかったね。いまは親戚も誰も残っていないけど」

おばあさんは南谷の人里から小岩に嫁いできて、御年83歳だという。若いころ実家の人里へ帰るときは目の前に立ちはだかる浅間尾根を越えて行ったんですか?と聞くと、「そんな、江戸時代ではないんだから山は越えませんよ」

1956年には武蔵五日市駅から小岩、人里まではバスが入ったので、おばあさんは尾根に登らずともバスで実家に帰ることができたのである。

5月は川そばでは最高の季節

都道を歩いて夏地橋を渡り小沢地区へ入った。かつて御前山から湯久保尾根ルートで小沢まで下りてきたことがある。麓にたしかピンク色の校舎があったような記憶がある。それが旧北檜原小学校だったのだろう。校舎は2019年に解体され、跡地には『檜原森のおもちゃ美術館』が立つ。ここにも当時のグラウンドだけは残っていた。檜原村の大沢地区には、いまどきめずらしいユースホステルがある。ホテルの隣の家からちょうどおじいさんが顔を出していたので声をかけてみた。

北谷の川そばに立つおじいさんの家は、冬はとにかく寒いそうだ。12月から1月までは山の陰になって日がまったく差さないという。

「その季節は冷えるね。一番あったかい薪ストーブでなんとか。冬はそんな寒いときもあるけど、いいところだよ。とくにこの5月は最高のときだよ」

いまは子どもと孫の5人で暮らしているというおじいさんは、にこにこして話してくれた。

大沢やこの先の白倉などの三都郷(みつごう)地区は、昔から大嶽神社を抱えているところ。大岳山の直下に本社があり、白倉には里宮がある。白倉から本社へ上るルートが本来の表参道だ。それがいつしか御岳山から大岳山へ登るルートや、鋸山近くまで車で上がり、そこから尾根道を伝って大岳山へ行く人が多くなったそうだ。いまや表参道は、地元の人の独占ルートともいえる。

「いまでも年に2回は登山道の草刈りをやっているんですよ」

往年の表参道は地元の人の汗によってかろうじて保たれていた。

泉沢の集落。古い家と新しい現代の建物が混在している。午後遅くなると、泉沢の西側には日が当たらないようだ。
泉沢の集落。古い家と新しい現代の建物が混在している。午後遅くなると、泉沢の西側には日が当たらないようだ。

自然しかない、泉沢の集落

都道から離れ大嶽神社に寄ってから中里へ出た。下には都道、斜面上には家々が立っている。毎日の上り下りは、昔ならさぞや大変だったろうと想像できる。再び都道へ戻って先へ。

北秋川は南秋川と合流し、秋川となる。その秋川を渡って支流の泉沢沿いに上がっていく。沢の左岸に家が点在していた。坂道を上がっていくと神社の鳥居。貴布祢伊龍(きふねいりゅう)神社という村の鎮守だ。神社脇の泉沢に小さな滝が落ち、社殿の左脇には巨石が鎮座していた。巨石には紙垂(しで)が垂れているので、もともとは盤座(いわくら*2)が御神体だったようだ。

*2 磐座
磐倉、岩倉とも書く。日本に古くからある自然崇拝の一種。巨石や岩に対しての信仰、または信仰対象となる岩そのもののこと。

貴布祢伊龍神社の本殿脇に鎮座する巨石。もとはこれがご神体になる。高さはゆうに3mはあるかと思われる。
貴布祢伊龍神社の本殿脇に鎮座する巨石。もとはこれがご神体になる。高さはゆうに3mはあるかと思われる。

神社からさらに上へ。車道が途切れたところからは馬頭刈尾根に上がる登山道になる。そこから再び戻って来た。泉沢には瓜生卓造が描いたような自然豊かな景色があったが、僕には最高の別荘地までとは思えなかった。ここも悪くはない。だけど檜原村には小岩や人里、ほかにもいいところが多い。空が広いということなら、北谷の奥の山上にある倉掛などは最高だと思う。

新型コロナであまり出歩かなくなったというおばあさんが、散歩にきていた。「ここはとくにみるところもないし。自然しかないところですよ」。

確かに自然しかない。でもそれが本当は貴重なのだ。古代から盤座を祀ってきた泉沢の人たちは、その大切さを理解し、守ってきたのだろうと思った。

 

北秋川沿いの集落[東京都檜原村]

【行き方】
JR五日市線武蔵五日市駅から西東京バス「藤倉」行き約40分の「小岩」下車。

【雑記帳】
三都郷地区大沢の共励小学校跡にある『檜原村郷土資料館』。縄文時代から現代までの村の歴史や暮しがわかる道具類なども豊富に展示。入場無料。9時30分〜17時(4〜11月)、火休。☎042-598-0880

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2022年7月号より