『大阪で生まれた女』(1979年)
あの頃のディスコ、チークタイムに賭ける気合いはハンパなかった
私はこの曲を聴くと、梅田のディスコ「ボトムライン」のダンスフロアの残像がリアルに蘇ってくる。
『大阪で生まれた女』がリリースされる前年の夏には、映画『サタデーナイトフィーバー』が公開されて、大阪も空前のディスコブーム。キタやミナミの繁華街には何軒ものディスコがあったのだが、『ボトムライン』がいちばん敷居が低くて入りやすい店だった。入場料が安く、男性だけの入場でもOKだし。当時若者だった人々に「はじめて入ったディスコはどこ?」と、問えば半数以上の人々がこの店の名前を出してくるだろう。たぶん。
阪急東通りのアーケード。いまは1階に『まんだらけ』のある雑居ビルの長いエスカレーターを上る。3階にある店の中に入ると、ビージーズの『ステン・アライヴ』やジンギスカンの『めざせモスクワ』が大音響で響いていた。
吹き抜けのダンスフロアは、大阪のディスコのなかでも群を抜いて広い。けど、踊らずにフロアを眺めているだけの客がやたら多かったような気がする。やがて照明が暗くなり、ムーディーな音楽が流れだす。チークタイムになると、それまでフロアを傍観していた男たちが急に動きだす。目星をつけていた女のコのもとに駆け寄り、一緒に踊ろうと誘う。
ナンパ目的の男ばっかり。女のコたちのグループもまた他の店より多かった。時々、彼氏と一緒に来た女性に声をかけてケンカになったりもするのだが。
出会い系アプリどころか、携帯電話もポケベルもない時代。ディスコは男女が出合うための場所でもある。道頓堀の“ナンパ橋”で声をかけるよりは、よっぽど確率が高い。酒が入ってガードがゆるくなった女子は電話番号くらいすぐに教えてくれる。
閉店後、チークを踊った女子を誘って、始発電車の時間まで一緒に深夜喫茶へ。意気投合してうまく行けば、そのまま大人の休息所に行ける……なんて、淡い夢はいつも打ち砕かれるのだが。
人通りが少なくなった阪急東通りのアケードをトボトボと歩く、そんな敗残兵の悲しさも思い起こさせてくれる歌でもある。電信柱に染み付いたのは、オレたちの涙なのかも。
『浪花恋しぐれ』(1983年)・『王将』(1961年)
夢追い男を支える女の物語は、大阪ご当地ソングの黄金パターン!?
しかし『大阪で生まれた女』は、ディスコのナンパに失敗したくらいで落ち込んでいるようなチェリーボーイとは違って、もっと深い男女の愛の葛藤を描いたものだ。
この曲を作ったBOROは大阪近郊の町に育ち、歌の勉強をするために上京。その後は大阪に帰ってキタの盛り場で弾き語りの仕事をしていたが、メジャーデビューして再び上京している。
上京するたびに辛い別れを経験していると思う。つき合っていた彼女といろいろとあったのだろうな。とか、想像してしまう。歌詞に登場する女性は、あくまで架空の人物とされているのだが。
成功すればいい、しかし、鳴かず飛ばずではふたりの生計が成り立たない。地元ならまだなんとかなりそうだが、東京は見ず知らずの土地。ついて行くには不安が大きい。
「もう、アンタにはついていけへん」
そんなふうに、普通は思う。しかし、彼女は悩んだあげく一緒に東京へついてゆく決心をした。ロングバージョンの歌詞には、上京する新幹線の列車番号とか、東京での暮らしぶりも詳しく記されている。いろいろと苦労したあげく、むくわれることなく最後は別れてしまうのだけど。
考えてみれば、夢を追う男とそれに振りまわされながら耐える女ってのは、大阪を舞台にした歌にやたら多いパターンでもある。
1983年に大ヒットした都はるみと岡千秋のデュエット曲『浪花恋しぐれ』でも、そうだった。天才落語家・桂春団治とその妻を描いたものだが、なんせ破天荒で知られた男。芸のためなら女房も泣かすと公言している。酒持ってこい! とか怒鳴り散らす。いまならD Vで逮捕されてそう。
そんな大阪ご当地ソングの黄金パターンは、1961年にリリースされた村田英雄の『王将』から始まったものだ。この歌のモデルの昭和初期の将棋士・坂田三吉も、破天荒ぶりでは春団治に負けず劣らず。通天閣の下で将棋の腕を磨いて日本一をめざすのだが、生活はかなり困窮していたようだ。
そんな亭主にグチひとつ言わず献身的に尽くす女房の小春……そういったタイプが、大阪の男たちの理想的な女性像なのだろうか? しかし、今時の女性にそれを求めるのは、無理だろう。
80年代後半あたりから大阪のご当地ソングも冬の時代。ほとんど見かけなくなっていた。黄金パターンで押し通すのは無理がある。もはや、時代にはそぐわない。
いや『大阪で生まれた女』や『浪花恋しぐれ』が流行っていた70年代末〜80年代前半でも、これが東京だと違和感がある。もう、とっくにそんな時代ではなかった。東京と大阪では感覚が違うのか。流れている時間も違っていたのか? そんなふうに思ったりもする。
『大阪ストラット』(1995年)
MVで観る90年代の道頓堀はまだ、かろうじて「日本」だったか?
90年代。大阪のご当地ソングは、ほぼ消滅した感じだったけど。そのなかで唯一、いまも強烈なインパクトを残している曲がある。
1995年5月に発売されたウルフルズの『大阪ストラット』。大瀧詠一の『福生ストラット』の曲、そこにでてくる地名を大阪に差し替えたカバー曲だという。
「ストラット(strut)」には「堂々と歩く」「もったいぶって歩く」ってな意味がある。トータス松本が道頓堀をふんぞり返って歩くMVには、彼が1人何役も演じる“典型的大阪人”が随所でからんでくる。面白いのだが、面白がっているような時ではなかった……。
この曲が発表される2ヶ月前には地下鉄サリン事件が起きて、まだ世の中が騒然となっていた頃。また、同年1月には阪神淡路大震災も発生している。被災地の阪神間沿線や神戸では、倒壊した建物やブルーシートで覆われた屋根があちこちに、空地はどこも仮設住宅が建ちならんでいた。
大阪から目と鼻の先、東京から横浜へ行くよりもずっと近い場所で、そんな光景が見られた頃のことである。それなのに、この能天気な感じのMVを観た時には、
「これは、どこの国?」
とか、思ったりもした。東日本大震災やコロナ禍の時と同じで、1995年前半は日本中に不安で暗い雰囲気が充満していた。そこだけが、他の日本とはぜんぜん違った空気が流れている印象。他に比べりゃ外国同然。ラップのパートにある言葉に、
「たしかに、そう」
激しく同意。
大阪ネイティヴではない私には、大阪の街が香港とか東南アジアの街のように感じることがある。他の街と比べてざわざわとやたら騒がしい。他人との距離も近い。電車待ちしている時、隣のオッサンが気安く世間話してくるなんてこと、東京ではないよなぁ。
いま一度、MVを観てみる。トータス松本が道頓堀をイキって歩いている。2000年代初頭に閉館した映画館の「浪花座」とか、チラリ映っているのが懐かしい。大阪随一の繁華街なだけに道頓堀は人であふれているのだが、そぞろ歩きが楽しめる程度には空間に余裕がある。歩く人々の顔も日本人ばかり。
この30年でかなり変わった。90年代頃の道頓堀を昼間の山手線とするならば、いまは朝夕のラッシュアワーといった感じ。足の踏み場がなく、普通に歩くにも難儀する。のんびりとそぞろ歩くなんてもう無理だ。
新型コロナウィルスのパンデミックが起こる前、インバウンドの聖地になった道頓堀には、外国人観光客が大挙して押しかけるようになっていた。MVでは見あたらない中国語や韓国語の看板が、いまは日本語よりも幅を利かせている。聴こえる言葉は大阪弁より、韓国語に台湾語、中国語、タイ語、英語、などなどの外国語のほうが多い。
入国制限が緩和された最近では、また、そんな状況に戻りつつあるという。大阪。外国同然から、とうとうホントの外国になったのか? 次に流行るご当地ソングがあるとすれば、中国語とか韓国語の歌詞になっていたりして……。
取材・文=青山 誠